machiruda1984’s blog

特撮ヒーローとかプリキュアとか

今こそ特撮オタクに勧めたいプリキュア

プリキュアはいいぞ

筆者は、幼い頃から30年以上ずっといわゆる”ニチアサ”を愛し続けてきた。平成ライダーもまだない、戦隊もまだ平日夕方にやっていた、メタルヒーロー+女児アニメ体制の頃から、日曜の朝はテレビ朝日と相場が決まっていた。そんな僕から見て、ニチアサで戦隊ライダーだけを好んで見ている特撮オタク層に強く言いたい、プリキュアはいいぞ、特撮のオタクこそプリキュアに行け!(CV阿部寛)

何がそんなにいいのかここでは述べていこうと思う。

 

〇そもそもプリキュアとは

ざっくりプリキュアとは何かを説明すると、ひょんなことから妖精や異世界人と交流することで伝説の戦士プリキュアに変身できるようになった普通の女子中学生(一部例外もある)が、悪の組織と戦う物語である。うん、そう書くとスーパー戦隊シリーズと大して変わらない、いわば女児向け戦隊という気がする。しかし両者の物語の構造には、大きく違う点がある。

 

プリキュアの物語において軸足が置かれているのは、女子中学生たちの日常なのだ。いつも通り朝起きて家族と会話し、学校で過ごし、街の人たちと交流する。そんな何気ない日常の中に、妖精や異世界人といった”ちょっと違うもの”がごく自然に溶け込んでいる。正体を隠すためにアタフタするといった回もあるのだが、そこも込みで「日常の一コマ」になっているのだ。

するとそこへ、悪の刺客が現れる。狙われる街、脅かされる平和、襲われる周りの人達。少女達はプリキュアに変身し、これを退治する。

平和に戻った街で喜び合う人々。中断されていたスポーツの試合が再開したり、学校行事が無事に幕を開けたりする。あぁよかった、これで私達もみんなで遊びに行けるね。めでたしめでたし。

 

…今の文章に違和感がなかっただろうか。戦闘の部分、”プリキュア”の部分をめちゃくちゃ端折ってなかっただろうか。若干大袈裟な例えだが、これがプリキュアの配分である。戦闘そのものを目的としていないから、プリキュアの戦闘パートの比重がものすごく少ない。それでいて今の戦隊に比べて、バンク映像(変身、名乗り、キメ技)を毎回丁寧に使い続ける。新規の戦闘映像は本当に短いのだ。それは彼女たちにとって、ごく一部の強敵を除いて、変身や技そのもの=勝ちフラグ水戸黄門の印籠だからに他ならない。どんな熱い戦闘を繰り広げるかよりも、そのあと食べに行くパフェの方が大事なのだ。ただもちろん、決して無責任という意味ではない。地球や世界の命運をかけて戦っているのは、戦隊とそこまで変わらない。ではなぜ、何がそんなに違うのか。

 

 

プリキュアは日常没入型アニメである

その違いは番組作りの、ビジネス構造の違いにあるものだと思う。戦隊やライダーの主力玩具商品である”なりきり”アイテムは、悪(仮想敵)を倒すために文字通りヒーローになりきって遊ぶための変身ベルトや武器を指す。プリキュアの商品群にも同様のアイテムは確かに存在しているし、なりきりアイテムとしては究極とすら言える女児向け公式コスプレ衣装を毎年ご丁寧に販売している。しかし実は、”プリキュアになりきる事”はプリキュア商品群の本質ではない。その本質は”非日常をどれだけ日常に落とし込めるか”なのだ。

 

ほとんどのプリキュア作品に登場する妖精。作品によって差はあるが、平和な異世界からやってきた小型の生物。ある者は住処を追われ、ある者は重要アイテムを探しに、なぜ現れたのか物語序盤では明かされない者もいるが、プリキュアたちにとって非日常との最初の接点が妖精(もしくは敵)である。ある者は自身の体を変身アイテムに変化させ、ある者は不思議な端末に宿り、あるいはそのままの姿で、とにかくプリキュアの日常に入り込み、長い時間を共に過ごすパートナーでありながら、明らかな”異物”なのだ。

 

この妖精に関する玩具もなりきりと同等かそれ以上の重みを持って発売されるが実はこれがキモなのだ。プリキュア玩具を求める女児層にとっても、これらの妖精が「非日常との最初の接点」に他ならない。女児達にとって妖精のぬいぐるみは新しい家族であり”お迎え”する。するとぬいぐるみは番組と同じ声で喋り出す。コミュニケーションを求め、お世話を求め、とにかくこちらに語りかけてくる。男児玩具にも本人ボイスが入っているものはあるが、あれとは意味が異なる。彼女たちは妖精と擬似同居しているのだ。プリキュアの世界にどっぷり没入させる。

 

そしてこう語りかける、新しいオヤツが欲しいと。その時プリキュアは、敵を倒して、奪われていたアイテムを新しく手に入れている。プリキュアのコレクション系小物アイテムは、妖精のお世話に結びついている。男児たちが自身を強化するために小物を集めるのと同様に、彼女たちは新しいお菓子やお世話グッズを集め、妖精に尽くすのだ。そしてその献身を可能とするために小物アイテムを読み込む「お世話端末」(妖精と遊ぶミニゲームなどが楽しめる、タブレットなどを模した単独で1万円近くする結構な高額アイテム)がある。それらを通して、彼女たちはただのぬいぐるみやドット絵を家族と錯覚し、1年間行動を共にする。これは強烈な没入体験だし、販売側も別に悪気があってやっている訳では無い。その擬似同居を楽しんでもらうのがプリキュアの真のエンタテインメントだ。変身は実は二の次なのである。

 

 

〇おっさんはプリキュアに没入できないのか

女児を没入させて疑似体験してもらうのがプリキュアだというのは説明した。しかしこれを成人男性がそのまま同様に没入できるかと言ったら…まぁ無理だろう。それではなぜ、特撮オタクにこんなにプリキュアを推すのかと言う話、それはここからが肝心だ。ここで、シリーズ第15作「HUGっと!プリキュア」(以下ハグプリ)を例にとって説明する。ちょっと特徴的な固有名詞がいっぱい出てくるけど、そういうもんだと思って読んで欲しい。

 

ハグプリは、不思議な赤ん坊”はぐたん”の育児と戦闘を両立する”ママさんプリキュア”。もちろんこれまでの説明通り、普段は普通の中学生として生活しているし、戦闘の比重がそこまででもないのでどうにかこうにか両立という印象だ。

 

対する敵は、人々の明日への活力、希望の力”アスパワワ”を狙うブラック企業クライアス社(暗い明日ってことね)。ネガティブな感情で心がトゲトゲした人間はアスパワワがトゲパワワに変化する。クライアス社の刺

 客はトゲパワワの持ち主を見つけるとそれを利用して、怪物オシマイダーを発注して街で暴れさせる(本当に「発注、オシマイダー!」の掛け声で書類にハンコが押されて誕生するのだ)。

 

ある日街に、仕事に失敗し絶望するサラリーマンがいた。「もうおしまいだ…」と嘆くサラリーマンに忍び寄るクライアス社の刺客。そしてサラリーマンのトゲパワワで生み出されたオシマイダーが街を襲う。

そこに現れるハグプリの面々。ハグプリの中心人物、戦隊で言えばレッドにあたるピンクキュアはキュアエール。両手にポンポンを持った”元気のプリキュア”、口癖は「フレフレみんな、フレフレわたし」。そう、キュアエールは被害者にエールを送り、明日への希望を取り戻させるプリキュアだ。しかしその普段の姿は素敵な大人に憧れるいわゆるドジっ子であり、どちらかと言えば日常パートでは失敗続きなのである。

 

プリキュアとオシマイダーの戦闘を見ながらある時ふと我に返る。あれ、あのサラリーマンってもしかして俺の事なんじゃないか?先週の仕事で怒られて、心がトゲトゲしかかった今の自分の写し鏡なんじゃないだろうか。その時、画面の中の少女たちは必死にエールを送ってくる。失敗したって大丈夫、また明日、頑張ろう。自分たちだって赤ちゃん育てながら必死に戦ってるのに、この子達はアスパワワに満ち溢れている。

 

やがてプリキュアのキメ技が炸裂し、オシマイダーは「ヤメサセテモライマース」と定番の負けセリフを言いながら、満面の笑みとともに浄化されていく。元に戻ったサラリーマンは、また明日頑張ろうと、市井に戻っていくのだ。

 

…うん、いいアニメだった。俺も明日もう一度頑張ってみようかな。そう思う視聴者の胸に、アスパワワは確かに灯っている。

 

そうこれが、おっさんがおっさんのままプリキュアに没入する体験である。プリキュアが守るのは「そこにある日常」であり、その中には男児も女児もオッサンもオバサンもじいさんもばあさんも全部含まれる、その中の1人になってしまうのだ。

女児の父親として一緒に見ている男性はプリキュアの父親の目線で楽しんでもいい。やがてこの娘が中学生になって、ある日突然「私は実は伝説の戦士で、悪者と戦っていて、これから敵地に乗り込むの」と告白された時、プリキュアの父親のように優しく振る舞えるだろうか。いや、そうなろうとする気持ちこそが大事なのだ。プリキュアにならなくていい、守られる側で大いに結構、いいからとにかくそこにいなさい。それが大人流のプリキュア没入術なのだ。

 

ちなみに1個ネタバレすると、ハグプリの最終決戦では地球人類70億人全てがプリキュアに変身するので(マジで)、あなたも私もプリキュアです。おっさんはおっさんのままプリキュアになってもいい、唯一の例外です。

 

 

〇ミラクルライトを手に取って

もう1つ重要な大人流のプリキュア没入術があるのだが、先にお断りしておくと、これはコロナ前の方法論であって現在その通りに実践することができないのだ。なので、そのつもりであくまで読み物として読んで欲しい。

 

大人が大人のままプリキュアに没入する魔法のアイテム、それが”プリキュアラクルライト”である。ミラクルライトとは、劇場版作品の入場特典として女児に配られる小型のLEDライトで、劇中でキャラクターが呼びかけたらそれを振ってプリキュアを応援すると、なにやら奇跡的な力を得てプリキュアが大逆転するというものだ。いや待て、そのくらいは何となく知っているが、チビッ子専用の入場特典と大人の没入になんの関係があるんだ、と思ったアナタに朗報です。ミラクルライトは映画館の売店で買えます。配布版とは違う派手なストラップヒモのついた、少し値の張る大人用ミラクルライトはマジで売っています。ただしこれは知る人ぞ知る超プレミアムVIPパスポートなので、初日の朝にはだいたい完売してしまうため、知らないファンもいるのだ。では何がそんなにすごいのか。

 

プリキュアの映画はスケールが普段と大きく異なる。いつものメンバーは異世界に迷い込んだり、海外旅行に行ったり、日常から少し離れた舞台を訪れることが多い。そしてそこで守るべき対象は、新しく知った場所や新しい友達をメインとするし、もちろんいつもの日常も含まれる。というのも映画版は敵キャラのスケールも大きいので、基本的に「放置したら地球や世界があっという間になくなる」くらいだと思っていい。そうなると当然、いつもの日常も守る対象に包括されるのだ。またこの非日常を演出するため、やたらと芸能人ゲストを声優に起用する。

 

新しい舞台で新しい友達との交流の先、やがて現れる物語の黒幕。とてつもない力で蹂躙されるプリキュア達と世界。映画プリキュアには東映アニメーションが誇るドラゴンボールやワンピースにも携わったベテラン作画スタッフがガッツリ投入されるので、戦闘シーンもいつもの何倍も激しく、今どき男児特撮でも見ないほど無惨に破壊し尽くされる街の絶望感。打ちひしがれる市井の人達。真っ暗な映画館の中で、あぁこれもうホントに世界は終わりなんじゃないだろうか、大の大人でもそう思ってしまう。周りの女児の何人かはもう泣いているかもしれない。

 

するとそこに響く、か細く小さな、しかし確かな妖精達の声。「みんな、プリキュアラクルライトを振って、プリキュアに力を!」そうだ、私たちにはまだ希望がある。今こそあのライトを使う時なんだ。周りの女児達が一斉に灯りをともす。そしてスクリーンにも、いつの間にかミラクルライトを持ったガレキの中の市井の人達、そう、そこにはオッサンもオバサンもいる。俺達も私達もプリキュアの勝利を必死に願うのだ。大声を出すのはさすがに周りに配慮するが、今こそミラクルライトに光を灯し、心の中で一緒に叫ぶんだ、「頑張れプリキュア!」と。他の映画では決して見た事のない眩い客席、その光に包まれ、新たな姿を得たプリキュアが今こそ立ち上がる。「頑張れプリキュア!」

 

ここまでこの駄文に付き合ってくれた諸氏ならもうわかるだろう、ミラクルライトの力を得た新フォームとは勝ちフラグだ、水戸黄門の印籠だ。ここまで来れば大丈夫。しかしここまで来るためにはプリキュア達の力だけでは足りなくて、ミラクルライトを持ったみんなの力が必要だった。いつも我々を助けてくれるプリキュアを、今度は我々が助けるんだ。その一体感で女児達は歓声を上げ、大人達は安堵する。頑張れプリキュア!ありがとうプリキュア

 

…うん、いい映画だった。しかしこの高揚感はなんだろうか。そうそれは、プリキュア映画は物語に没入してみんなで敵を倒す物語だからに他ならない。その証拠にその手に握られているだろう、紛れもなく周りの女児達と同じ、プリキュアラクルライトが。

 

…どうでしょう、大人もミラクルライト欲しくないですか?プリキュア映画見たくないですか?

大人用ミラクルライトが超プレミアムVIPパスポートだと前述した。それはこの超ド級の没入感を、大人でも女児たちと一緒に贅沢に享受するためのものだったのだ。そして大きいお友達はなるべく後ろの席を取ろう。その方が、前の席で元気いっぱいプリキュアを応援する女児達の熱量がミラクルライトに灯って輝く、大人だからこそわかる一番の絶景だからだ。プリキュアってすげぇな、となるのだ。

 

ただしこのミラクルライトに関して、やってはいけないことが3つある。

まず、この体験のためにと我先に売店に駆け込み、女児を押しのけるようなことはしてはならない。

次に、ミラクルライトタイミングが来ても、没入するあまり大の大人が大はしゃぎしてはいけない。これら2つは大人が大人としてプリキュア世界に入るためのマナーだ。

最後に、この大人用ミラクルライトは転売したり転売から買ってはならない。というのは、先述した没入体験というのは、まだ誰も結末を知らない、一番アスパワワに満ちた女児が沢山集まる初日初回こそが一番効果を発揮するので、届くのに時間がかかって平日の夜に1人でこっそり行っても意味が無いからだ。買うからには今その場で見ろ、賞味期限はまぁせいぜい今日いっぱいなんだ、と。

 

…で、コロナの影響で今この体験をこの通り全部享受することはできない。この駄文を少しでもいいと思ってくれた諸氏なら、過去作の円盤を見るだけでも何となく言いたいことはわかるかもしれない。また、ミラクルライトの系譜も形を変えて何とか存続しようとはしている。願わくば、また女児達が元気にプリキュアを応援できる世の中に早く戻ってほしい。そしてそのためには、今一度我々大人が力を合わせる必要があるのだ。さぁミラクルライトを手に取ろう!頑張れプリキュア

 

〇胸がパチパチする程騒ぐ…

少しまた別の話をさせてほしい。筆者はドラゴンボールもリアタイ世代で大好きだ。その中で一つだけ、ごく最近まで解せなかった概念がある。元気玉ってなんだ?と。

 

これもまたざっくり説明すると、元気玉とは孫悟空の技の1つで、周囲の生きとし生けるもの全てからちょっとずつ元気をわけてもらい、強力なエネルギー弾として練り上げる技だ。それはわかる。

前エントリー「ゼンカイジャーとはなんだったのか」で、必殺技とは必ず殺す技、水戸黄門の印籠だと書いた。出せば勝ち確定の最強技…か、元気玉は?

漫画原作で元気玉が使われたのは4回、最初の1回は練習でガレキを壊しただけなので、これはノーカウントでもいいかもしれない。魔人ブウを完全消滅させた最後の元気玉は間違いなく必殺技だろう。カウント外だがGTの最終決戦も元気玉で決着した。しかしベジータフリーザに放った元気玉は、弱らせこそしたものの、トドメを刺すには至っていない。”必ず殺す技”では無いんじゃないかと。

 

ところがドラゴンボールは劇場版になるとこれが大きく異なる。元気玉でトドメを刺す作品がやたら多いのだ。そう言えばZ前半では毎週主題歌で「元気玉」のワードを聞いている。アニメオリジナル展開だと言うならさっきのGTもこちらに含まれるのかもしれない。ここの乖離がなぜ起こるのか、子供ながらに疑問だったのである。

 

この文をずっと読んでくれた人はもう言いたいことがわかっているだろう。同じ東映アニメーションに作られた、劇場版の元気玉プリキュアラクルライトの先祖なのだ。「地球のみんな、オラに元気を分けてくれ!」の”地球のみんな”に、没入した観客全員が内包されるのだ。まだ映画館で光や声を出したりするのがご法度な時代(まだと言うか普通はそうなんだが、今は応援上映というのもこの系譜に入るのだろう)に、没入した観客は心の中でミラクル元気ライトを灯すのだ。「頑張れ、孫悟空!」

そして勝利したスクリーンの悟空は満面の笑みでこう言うのだ。「オラ、腹減っちまったな」と。それが悟空の取り戻した日常だ。プリキュアと同じなんだ。

 

筆者の中で全部繋がった。そうか、孫悟空プリキュアだったのか(違)

もとい、プリキュアの没入体験型映画の原点となったのはドラゴンボールだったのだ。先程確かに書いた、プリキュアの映画にはドラゴンボールやワンピースも経験したスタッフがいて、激しい描写をする。同じようなスタッフが同じような強敵を描き、観客を1回全部絶望させ、いや待てみんなの力で悪を倒そう!力を貸してくれ!と。なるほどこれはコンテンツとして強いわけだ。もしかするとブウ戦やGTの元気玉はいくつかの映画作品を経て原作に逆輸入された要素だったのかもしれない。そう考えると、初期の元気玉と後期の元気玉の勝率の意味がガラッと変わってくる。

 

そしてもう1つ、初代”ふたりはプリキュア”の企画書に最初に記されたコンセプトを皆さんご存知だろうか?それは「女の子だって暴れたい」というものだ。プリキュアは女児向け戦隊になりたかったんじゃない、孫悟空になりたかったんだ。あぁ繋がった!東映アニメーションってすげぇな!オラワクワクしてきたぞ!

 

〇宇宙最強クラスの女児コンテンツへ

この没入体験というのが、他のキッズコンテンツが実はなかなかたどり着けない境地だ。ディズニーはまぁ没入体験の重要性をわかっているだろうが、全ての作品で勝利を目的としているわけではない。アイカツなどのゲーム連動アニメは、没入するのにどうしても現金投資を必要とする。後発他社の女児向け特撮は詳しくないのでここでは多く語らないが、意図的に「女児向け戦隊」方向に寄せているような気がする(それでいて商品展開はプリキュアに寄せてる感もあるのだが)。セーラームーンでさえもどちらかと言うと「女児向け戦隊」である。

 

また、プリキュアの前に繋がるおジャ魔女どれみなどの女児アニメも、この境地には到達していなかっただろう。しかしどれみもナージャもシルバー王女も、異なる形で自分たちの日常を精一杯守った。その系譜がプリキュアというオバケコンテンツの原動力になったのは間違いないだろう。筆者が見続けた女児アニメ枠は、戦隊やライダーにもヒケを取らない宇宙最強コンテンツの一角になり、だからこそプリキュアは19作目まで続いているのだ。

 

〇最強のトライアングル、ニチアサ

よく「戦隊がライダーのオマケ」みたいに言われるが、筆者の理想としては「戦隊とプリキュアがライダーの両翼」であってほしいのだ。ルフィにとってのゾロとサンジだ(もろ裏番組なのだが、これも東映アニメーションの系譜だから許して欲しい)。2つがバツグンの安定感を見せるからこそ、仮面ライダーは自由に冒険できる。

 

この四半世紀、戦隊、仮面ライダーメタルヒーロー、女児アニメの3つのコンテンツは、互いに支え合って成長してきたのだ。

90年代の前半までメタルヒーローと女児アニメは手を替え品を替え共に歩み続けた。この時まだ戦隊は平日夕方にやっていた。

97年、メタルヒーローは大きな転換を迎える。それまでのメタリックでスタイリッシュなヒーロー像を覆したビーロボカブタックの登場だ。世間の反応もどうなるかわからない。だからこそテレビ朝日は、メガレンジャーを日曜朝に移したのだ。ダブルヒーローが支え合うために、これが今で言うニチアサ体勢の誕生だ。

00年、今度は2つの番組に大変革が起きる。メタルヒーロー、コミカルロボット枠から仮面ライダークウガへの変化。そして大人志向のハードな作風のタイムレンジャー。しかしその時、2年目を迎えたおジャ魔女どれみ#が語りかける、「今度は私達が支えるよ」。

男児コンテンツがその作風とイケメンブームによるヒットを受け盛り上がる中、日常をつむぎ続けるが故に学年をも重ねてしまった4年目のおジャ魔女達に小学校卒業の時が迫る。「俺たちはへっちゃらさ、だって俺たち、伝説の後継者なんだぜ!」おジャ魔女の後を受け、03年の明日のナージャ、そして翌年いよいよ始まるプリキュア。その間も男児ヒーローは切磋琢磨し、映画館に子供たちを呼び込むスタイルを確立させる。「私達ももっともっとがんばるよ!だから、もっともっと新しいことにチャレンジしようよ!」爆発的なムーブメントともに2年目に突入する”ふたりはプリキュアMax Heart”と同期の男児ヒーロー、それは魔法戦隊マジレンジャー仮面ライダー響鬼である。

 

これがニチアサ史の一端であり、その後全部書くのはここでは割愛する。しかし確かに、三本の柱は互いに切磋琢磨し合って、時に支え合って、この四半世紀子供たちの心をグッとつかみ続けたのだ。1個1個が独立したシリーズ(あるいはシリーズとしては断続すらしている)でありながら、ニチアサは”ニチアサ”なのだ。だからこんなに長ったらしく説明したのだ。プリキュアはいいぞ。男児もオッサンもプリキュアを見ろ。特撮のオタクこそプリキュアに行け!(CV阿部寛)

 

 

〇ニチアサが紡ぐ未来

…それでじゃあ、プリキュアは爆発的にヒットし続けているかと言うと、やはり商業的には厳しいものがある。没入体験がピンポイント過ぎて「刺さる人には刺さる」の領域から脱出できていないのかもしれない。この文を読んでプリキュアを見たくなった人でも、グッズを買い支えようとは思わないかもしれない、いや逆に大人は妖精オモチャを買わんでいいとすら思う。

 

なんで今この文を発表したのかと言うと、最近始まったばかりのシリーズ第19作「デリシャスパーティプリキュア」が変革点になるかもしれないからだ。平成ライダーで言ったらビルドだ。ということは、次にデカいムーブメントを起こすための仮面ライダージオウに相当する大仕掛けをもうすでに用意し始めていると予想している。このデリシャスパーティプリキュアが、やはり18年分の様々なノウハウを詰め込んだ名作の予感がプンプンしており、まだ数話しか進んでいないここから見て欲しいのだ。

 

そしてそれを可能にするため、今年はプリキュアシリーズで初めて、アマプラなどの見放題サービスに継続的に残ることになった。なぜ今までそれをしなかったのかと言えば、先述した女児没入体験はリアタイこそ最高だったからだ。過去の名作は過去の名作であって、中古屋でボロボロのぬいぐるみを探せたとしてもやっぱりそれは何か違う、作る側もそう思っていた。しかしそうも言っていられなくなった。サブスク時代に子供たちの興味を引き続け、次の大仕掛けを成功させるためには、過去の遺産を大いに活用するのだ。それがディケイドやジオウから、あるいはもしかしたら遠く離れた光の星からの、戦隊とプリキュアへのエールなのだ。

 

何らかのサブスクサービスに入っている特撮のオタクは、今こそデリシャスパーティプリキュアを検索して欲しい。まだ間に合う、一緒にプリキュアの日常に入ろう。だってこんなに素晴らしいニチアサの仲間なんだもの。

 

プリキュアはいいぞ、特撮のオタクこそプリキュアに行け!

そして心で叫ぼう、「頑張れプリキュア!ありがとうプリキュア!」(CV阿部寛)