machiruda1984’s blog

特撮ヒーローとかプリキュアとか

「復活のコアメダル」がもたらしたもの

〇最初に言っておく、これはかーなーりネタバレ

今回の文は映画Vシネクスト「仮面ライダーオーズ10th 復活のコアメダル」を鑑賞した前提で、アレがどういう映画だったのかを考察したものである。だから、未見の方はここで一旦引き返した方が得策だ。

 

本作は「感動した!超オススメ!」という言い方はしがたいのだが、それでも仮面ライダーオーズ完結編を謳う正規の続編であるので、可能であればフラットな状態から映画を見て、それからこの駄文を見て欲しい。

 

 

〇嫌悪と納得と賛否両論

「久しぶりの同窓会だと思ってウキウキして行ったら、クラスの中心人物の告別式でした」。単刀直入に言うとこれが今回の映画の正体。そこに強烈な違和感や嫌悪感を抱く層と、静かに受け止めながら自分なりに咀嚼して納得出来た層で、捉え方が著しく異なる。

 

そのため「賛否両論」というのは若干ニュアンスが異なる。より正確に言えばこれを実際世に出すことそのものの是非については賛否両論になってもおかしくないのだが。しかし感想はそれぞれに委ねられてるとはいえ「本編を冒涜、全否定している」という感想を持つのは少しだけ違うと思っている

ではなぜそんなことになったのか。

 

 

〇ハッピーエンドとバッドエンドとドクター真木

どんなに清廉潔白な聖人であろうと、ふとした事で人の命は失われてしまう。それは震災やコロナを経た今だからこそ、ヒーローも決して例外ではないんだと。それを本編の「生」というテーマと対比して徹底的に「死」をテーマに置いて作られた。

 

鴻上会長がずーっと「ハッピーバースデー=生」に拘り、ドクター真木がずーっと「よき終末=死」に拘っていて、テレビ本編では前者を肯定した。ただのメダルの塊だったアンクに様々な感情が芽生え、オーズと仲間たちとの強固な絆が生まれ、最後に後者を打ち倒す。それが本編の最終回だし、震災を受けた上での子供番組としての模範的なエンドだ。

しかし実際には、スタッフ間の初期案には火野映司が死んで終わるエンドが構想されていたという。

 

今回の映画で我々に突きつけられたのは「この生と死の対立を善悪二元論で確定してよかったのか、ドクター真木の意思は全く救いのない悪人の絵空事だったのか?」ということだと思う。この映画を”オーズらしい”と評価している人も、完全な肯定はしていないし、飲み込みきるには時間がかかることもあるだろう。そして本編を全否定されたと憤る人達の言い分にも一定の理解は示せるが、真逆の物をお出しされたからと言って「何も分かってない、ただの冒涜」と叫ぶのは違うのではなかろうか。


ちゃんと紐解けば仮面ライダーオーズという作品はずっと「欲望」と「生と死」を扱ってきていて、そこの軸は全くブレてない。ただ、子供の時のヒーローを10年経った今改めて見てみて、前述の疑問を大人の目線で今一度考えてはどうだろうか?という問いかけなのだ。

 

確かにこれは構造上どうしても”火野映司を殺すための物語”になってしまっているんだけど、じゃあ火野映司らしい最後の花道を与えるにはどうしたらいいかというのが今作。
だからこの映画に嫌悪感や怒り・嘆きを抱いている人達は、本当にそんな告別式に行ったとしたら同じリアクションをするのだろう。なんで死んじまったんだ!どうして!?と。それ自体は否定しない。

 

もちろん死んでよかった人なんてのはいないのだけど、どこかで「あいつらしい生き様だったな」って思えているのが肯定派。どっちの感情も存在しうるし、後者も別にただドライに構えているだけではないハズだ。全員が飲み込むことは不可能、あるいはせめてもっともっと長い時間が必要になる。告別式とはそういう事だ。

 

 

〇欲望とゴーダと火野映司

じゃあ肯定派は何をそんなに納得しているのかというところを考えたい。

 

筆者は火野映司は「底なしの欲望によって自分の命より他人を優先してでも助けたいから、本編終わってもどこかを旅しながら常に何かと戦って、傷つき倒れて、いつかどこかで野垂れ死にするタイプ」だと思っている。

 

古代オーズに敗北した映司が死の間際に思っていたのは「①あの女の子は無事逃げただろうか」「②アンクを生き返らせてあげたかった」「③古代オーズを何とかしないと、いつもの仲間や、世界の人々が…」の主に3点。

特に③に関して、本編序盤で拘ってきた”自分の手が届く範囲を助ける”を大幅に逸脱した範囲を考えてしまい(ただしそこに本人が生きているかどうかを勘案していない)、その巨大な欲望に紫メダルの残滓が反応して一瞬「グリードのような何か≒神」になったんだと思う。

比奈の言葉を借りるならそれこそが「都合のいい神様」なんじゃなかろうか。ただしそれは、みんなからの期待に答えたいとか、エネルギーをもらってパワーアップとかの類ではなく。
映司自身が死の間際に願った欲望を全部叶えるには、まさに神がかったデウス・エクス・マキナでしか解決できない。だからこそ、最後の最後に映司自身が自らの欲望で「都合のいい神様」になろうとしたからこその結末だったと。


そして②アンクを蘇らせ、もしかしたら①少女が生き延びたのもその影響かもしれなくて、その残滓はゴーダを生み出す力へと昇華される。
新グリードのゴーダは最終的にアンクらを裏切るも、「古代オーズを何とかする」「いつもの仲間の安否を確認する」という点においては確かに映司と目的③は一致している。また、ゴーダの力への執着は映司が本編終盤や映画「将軍と21のコアメダル」で願った「全てに手が届くほどの力」の曲解と見られる。


ゴーダは「自分が映司の体を動かしている。剥がしたら死ぬ」という状況になったけど、映司は「自分も生存してまたみんなで楽しく…」とかみたいなことは一切考えていなかった。そういう人物だから。自分に対してはとことん無欲で、それゆえに他人のことに関してはとことん強欲。


そんな映司のあまりに巨大な欲望だけど、すでに古代オーズ達に殺された人々はともかく、今後の犠牲者をなくすことには成功し、上記3つの欲望は満たされた。救済としてはむしろ十分なくらいの手厚いエンドだと筆者は思っていた…だが、火野映司は実は満たされていなかった。

 

 

〇死期と後悔と最後の欲望

火野映司は最後の最後に欲望が増えて、初めて「都合のいい神」から「普通の人間」に戻ったんじゃないか。映司は最後に目を見開いて悔しそうに生涯を終えている。前の段では3つの欲望が全て満たされたと書いたのだけど、それならそれで満足そうな笑顔で死んでも良かったんじゃないか。

 

全ての人々を守りたい底なしの欲望、ただし自分をその勘定の中に入れておらずひたすら無欲。そこには博愛はまだしも、自己犠牲とか贖罪とかそういった概念はない。だからこそ火野映司はヒーローにもグリードにもなり得る素養を持っていたし、周りの人達の期待が暴走すれば「都合のいい神」にもなってしまう。

それで前の段では映司自身が望んで「都合のいい神」になることでいくつかの奇跡を起こし、物語を終着させたと考えていた。ところが映司はこれに満足しなかった。

 

正確に言えば、死の間際でやっと「世界から自分がいなくなる」事を悟り、やっと自分に対する欲が出てきたんじゃないだろうか。あぁ、この仲間たちともっと一緒にいたい。この後の世界の復興も助けたい。もっともっと”生きたかった”と。

 

それが「普通の人間に戻った火野映司の生涯の幕引き」という結末であり、映司自身も最後にハッピーエンドを望んだのに手が届かなかったのだ。そしてアンクは、全てを悟りそっと映司の目を閉じる…

 

〇意図と是非と観客の願い

生と死の物語、果てなき欲望の物語、それをこういう形で発表すること自体が衝撃すぎて、様々なヘイトや嘆きの感情が渦巻いているのが今のSNSだ。だがしかし、決してこの映画は駄作では無いと思う。各人の受け取り方、飲み込み方の差によるものなのだ。以下は、SNS上でよく見られた「否定派の意見」に対して筆者が思ったことである。

 

・本編と真逆のことをやっている→それはそう。本編で否定した”死”を中心テーマにしているから。ただし、死そのものを賛美する話にはなっていない。

 

・本編でエモいとされているシーンの上っ面をすくって真似ているだけ→これもある意味でその通りだと思う。なぜなら映画が始まった時点で映司はほぼ死んでいるから。あの映画では「(著名人が亡くなった時の特番のような)告別式のお別れ映像、さらにはそれを愚弄するゴーダと、ゴーダに立ち向かう仲間たち」が描きたかったのであって、「映司の新しい活躍、新しい名言」を増やそうなどとはこれっぽっちも思っていない。復活したグリードやバース組の活躍も若干物足りないように思うが、彼らはあくまで告別式だから直接献花に来てくれただけだ。だからそれらを期待した層はガッカリする。そういう構造上の話だから、ゴーダに対するヘイトはともかく、制作陣にそこを追求するのはそもそもお門違いなのだ。

 

・こんな結末になるなんて不意打ち、騙された→ここもごもっともだと思う。筆者もお祭り感覚で最初は映画館に行ったから、そこをもう少しマイルドに宣伝できなかったのかという思いもある。

ただ、死というテーマを扱うにあたって「いつ誰に突然訪れてもおかしくない」という選択からこうしたのだろうとは思う。

 

・みんな揃ってハッピーエンドが見たかった→これは絶対にありえない。いや、最初に1回ふとそう思うだけならまだ構わない。しかし上記いくつかの意見はまだ理解できるが、”これ”は仮面ライダーオーズという作品自体を愚弄することだと思う。なぜそう言い切るのかを、この文書の最終章として以下にまとめたい。

 

 

〇願いとメダルと満たされぬ欲望

逆に「映司とアンクが協力して強敵倒してめでたしめでたし、比奈ちゃんと知世子さんと一緒にこれでまた皆で仲良く暮らせるね、鴻上グループの人達も時々顔を出して、クスクシエは今日も平和だなぁ…」っていうエンドだったら彼らは満足するのだろうか?

筆者としてはこちらの方が「…お前、誰だ?」案件だと思う。

 

「主人公グループの一人がお亡くなりになって悲しみに包まれるも、なんやかんやあって蘇り、俺たちはこれからもずっと一緒だぜ相棒!」というパターンは、実はそのままダブルの最終回、あるいはフォーゼ終盤の歌星健吾周りのエピソードだ。それら2作はそういう作劇だからよかったし、ダブルは正式続編「風都探偵」に、フォーゼはその後の話に繋ぐこともできた。彼らのチームは主人公(ダブルに関しては2人)とそれを取り巻く仲間たちで強固なチームを作っているので、チェスや将棋のようなものに例えられる。

 

火野映司とアンクの関係性はそれとは異なる。終盤では互いに信頼や友情、恩義のような物で結ばれているように見えるが、彼らの根底にあるのは「己の欲望を満たすための損得」だった。仮面ライダーオーズは欲望の物語だから。だから筆者は映司とアンクの関係性を「並び立つ最強コンビ」ではなくて「メダルの表裏」と例えたい。どちらも互いに必要とし合っているが、一見共存しているように見えるが、本来はどちらかしかその場に存在できないのだ。

タジャドル(エタニティ)とはメダルを立ててクルクル回している状態。そしてメダルが止まって倒れる時に映司が上向きなのが最終回、アンクが上向きなのが今作。同時に満たされ続けることはできない。それを比喩的に話に組み込んだのが「等価交換」や「楽して助かる命はない」ということである。

 

今回の映画を受けて本編を過大にハッピーエンド視している人がいるが、本編の結末は「アンクを助けるに至らなかった」、欲望は満たされなかったのである。だからアンクを蘇らせたいという新たな欲望ができた。結果として前向きなエンドのように見えるが、それは子供番組としての最大限の配慮であって、実は仮面ライダーオーズ本編はバッドエンドなのである。

 

その満たされない欲望を求めた火野映司は、時に他の仮面ライダーと”助け合い”をしながら、時にアンクと一時的な邂逅を果たしながら、さまよい続ける欲望の亡霊であった。あるいは、映司とアンクの新たな物語を欲する我々視聴者にとっての「都合のいい神」になりかけていた。実際に自ら進んで「都合のいい神」になって客演を続ける仮面ライダーも中にはいるだろう。しかし火野映司をそこから解放するためのまさしく「完結編」が、映司を殺すための映画、復活のコアメダルなのだ。

 

その結果として、先述のように映司の欲望は完全には満たされないまま無念とともに亡くなり、当然仲間たちの欲望も満たされず、ハッピーエンドを望んだ観客達もまた満たされなかった。

ではこの映画で誰のどんな欲望が満たされたのか。それは、火野映司を演じた渡部秀自身がインタビューで言っていた「これで映司はやっと救われた」に集約されるのだと思う。渡部秀自身が、バッドエンドから火野映司を救いたかった、そのための10年目の告別式だ。だから彼は、かつての仲間やスタッフに必死に呼びかけ、作品作りに誠意を持って挑んだ。一部で「裏のプロデューサー」と揶揄されることもあるが、彼自身が一番火野映司と向き合い続けた結論なのであり、意味もなく殺そうなどとは決して思っていない。

 

主人公の死を受け入れることはすぐには無理かもしれないが、この映画自体は本当にオーズ愛、いや火野映司愛に溢れた作品であるので、否定派の人もできればもう一度作品と向き合ってみてはどうだろうか。