machiruda1984’s blog

特撮ヒーローとかプリキュアとか

続・「復活のコアメダル」がもたらしたもの〜DARK SIDE〜

〇補足と追記ともうひとつの側面

前回のブログで、映画「仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル」について”火野映司の告別式”として作られたという視点から考察し、ひとつの文章にまとめあげた。筆者自身もここで区切りをつけて、満足した…はずだった。

 

それがある事をきっかけに、この映画の違う側面、闇の深淵を垣間見てしまった気がしたのだ。この映画は火野映司の告別式、だから今回の敵は、映司を殺すため、映司の死を愚弄するため、あるいはかつての敵たちが告別式に参加しに来てくれただけだろうと、そのくらいにしか考えていなかった。しかしここから話す仮説が正しいとするなら、古代オーズやゴーダには「オーズ10周年を総括するための明確な命題」が備わっていたのではないかと思ったのだ。

 

そのためこの文章は、前回記事の続きとして書くものなので、そちらを読んでくださっている前提で続ける。

 

 

〇時の王2018

まずこの文を書くに至った最初のきっかけを記す。筆者は前回のブログを書くのと前後して様々な人の感想や考察も読み漁ったのだが、ある時ふとある疑問が頭をよぎった。

 

「みんなそんなにジオウ嫌いなのか?(もしくは、語る必要のない番外編だと思っているのか?)」。そう、どこの感想や考察でも、ジオウの事は全く触れていないのだ。

 

ジオウというのはもちろんご存知「仮面ライダージオウ」のことだ。仮面ライダージオウは20番目の平成ライダーとして誕生し、そこまでの19作品の仮面ライダー達の歴史を継承していく。ということは当然仮面ライダーオーズもその歴史の中に内包されるので、ジオウのオーズ編には火野映司と泉比奈がご本人レジェンドゲストとして登場する(ただしウォッチの影響で本編の歴史や記憶は失われている)。

 

この”ただし”というのがキモであって、本編と繋がらないあくまで番外編という見方をするのが一般的なのだろう。そこを追求したいのではない。しかし筆者は、前回の文をまとめるにあたって仮面ライダージオウのオーズ編を改めて見直してみた。

 

この話は3人の王によるまさに「新たな王s」の話と言っても過言ではない。

・すでに王である(あった)男、火野映司

・王になろうとする男、常磐ソウゴ

・王になってしまった男、檀黎斗

そう、このオーズ編にはもう1人の”レジェンド”が登場するが、それは仮面ライダーオーズではなく「仮面ライダーエグゼイド」に登場した檀黎斗。もとの歴史では仮面ライダーゲンムとして暗躍し続けた男が、アナザーオーズとしてジオウらの前に立ち塞がるのだ。ここもまた話を厄介にする。一見すると、とりあえずゲストをたくさん呼んでワチャワチャさせただけのように見えてしまう。しかし筆者は「アナザーオーズ=檀黎斗」という事実に、妙な納得を得てしまった。というより、アナザーオーズ、いやアナザー火野映司はこの人物しかいないのだ。

 

 

〇GENMマスター2016

檀黎斗は仮面ライダーエグゼイドの世界における重要アイテムであるゲームソフト「ガシャット」を作る会社ゲンムコーポレーションの社長である。番組放送当初は善意の協力者であるかのようなフリをしながら、自身を神と称し裏で好き放題暗躍しついにはメインメンバーの1人を殺めるも、一度は仮面ライダー達の活躍によって消滅する。その後バグスターウイルスとして再びこの世に蘇った檀黎斗は、半ば無理やりながら仮面ライダー達と協力関係を結び、自身の父親であり本作のラスボスとも言える檀正宗を倒すのに貢献する。しかし本編終了後に制作されたVシネマでは再び「真の黒幕」として立ち塞がり、さらにはそこで敗れたあとも短編スピンオフ「仮面ライダーゲンムズ」が作られた。もちろんその間、彼にまつわる公式グッズというのも頻繁に製作されたのである。

 

この檀黎斗の強烈な生き様が、実は仮面ライダーオーズの登場人物の誰よりも、火野映司と対になる部分が多い。

自身に対してあまりに貪欲過ぎる。なりふり構わず生にしがみつき、何度でも蘇る。信頼出来るパートナーや仲間はいない。父の仕事を見て育ちながら、やがて父をも超えるために欲望を燃やす檀黎斗と、我欲を亡くし父と袂を分かつ火野映司。

神を自称するところは泉比奈の言う「都合のいい神様」の皮肉でもあるし、そういえば物語終盤で新ガシャット開発のために九条貴利矢らに「都合よく利用された神」とも取れる。

そして物語本編が終わったのに何度も何度も周り(あるいは他作品にまで)に迷惑をかけ続けている様は、バンダイ東映にとっての「都合のいい神」であり続けているとも言える。今回の映画が完結編と謳っているのも、こうした続編は作らないという意思表示とも取れる。

 

オーズの伊達明のセリフに「医者の仕事はまず自分が死なないことだ。でなきゃ誰も救えない」というものがあり、これに対して映司は「じゃあ俺に医者は無理ですね」と即答している。この辺のキャラ解釈は前のブログとも一致する。

檀黎斗はなりふり構わず生にしがみつく。医者ライダーの作品であるエグゼイドにあって数少ない非医者ライダーなのに、伊達明の言葉を強引に解釈すれば、火野映司より圧倒的に”医者向き”なのだ。

 

これらの要素がなにやら必要以上に火野映司と正反対に描かれており、まぁ”王道的なヒーローから徹底的に外れた人物”を描いたら多かれ少なかれそういうところもあるのだが、実際のところ檀黎斗は仮面ライダーオーズとなんの縁もゆかりもないのにアナザーオーズに選ばれた。他のアナザーライダー同様、とりあえずフレッシュな若手俳優を配置することもできたはずだ。しかしそれをしなかったのは、火野映司も檀黎斗も熱心な視聴者はよく知っていて、彼らがまるで最初から対になっていたかのような納得を得られたからだ。

 

 

〇アナザー火野映司2021

一方で仮面ライダージオウの物語では各平成ライダーの歴史は失われてしまったので、実際のところあの出来事は仮面ライダーオーズ時間軸の話とは繋がらないのだろう。だからこそファンはあえてそっちの話をしないのかもしれない。

 

「では、檀黎斗を仮面ライダーオーズの文脈でリメイクして新しいキャラクターとして生み出すことはできないか?」と実際スタッフが思ったかどうかはわからないが、筆者は今度は新グリードのゴーダと檀黎斗の共通点を探し始めていた。

 

最初は味方のような顔をしてニコニコ近づいてきたゴーダ。主人公と同じ源流の力を持ち、しかしその腹の中ではドス黒い欲望を巡らせている。そして主人公の仲間たちを混乱に陥れ、人間の生死すらも手のひらで弄ぶ。

巨大な敵を前に一度は正義側について勝利に貢献するも、その後本来の欲望をむき出し、人であることを完全に捨てて襲いかかる「真の黒幕」…

 

もちろん先程の考察があるので、火野映司と対照的なキャラ付けをしていったら偶然そこに似てしまったのかもしれない。しかし、もしもしゴーダが檀黎斗なのだとしたら、この映画はそもそも「仮面ライダーオーズのみならず”この10年間の関連作品”全てを総括する」という意味を持っていたのではないか?

この時点でまだあくまで推測の域を出ない与太話ではある。そのため筆者は次の可能性を考えていた。「古代オーズにもそうした隠れモチーフ的なものがあるのではないか?」

 

 

〇キングダム2021

「復活のコアメダル」の世界は古代オーズの復活によって人類が滅亡間近まで追い詰められ、残された人々の一部はレジスタンスとして戦い続けている。なかなかに衝撃的なストーリーだ。ただしそこが漠然とし過ぎていてリアリティがないだとか、滅亡間近にしては夜景が綺麗だとか、そういうツッコミ所は確かにあった。

 

それで筆者は、まぁ火野映司を殺すほどの敵を用意する以上は中途半端な強さでは足りなかったから「とりあえず無茶苦茶な強敵」と設定したのだと最初は思っていた。そこ自体は1つの側面として間違ってないと思う。

 

ある人のTwitterにこうあった。「毎度毎度あの雑な世界設定を押し付けるのは、東映の誰なんだろう?」…ん?ここで筆者の脳内で、今回の世界設定に酷似した別の作品が思い浮かんだ。これは仮面ライダージオウの”オーマジオウの未来”と似ているんだ。

 

ここで仮面ライダージオウの詳しい考察をするのはまた長くなるので避けるが、ざっくりまとめると次のようになる。

仮面ライダージオウ/常磐ソウゴの未来の姿オーマジオウは最低最悪の魔王として2068年の世界を蹂躙し尽くし、レジスタンスとして戦っていたゲイツツクヨミが現代の2018年にやって来ることで物語が始まる。

この冒頭の2068年の描写が、やはり漠然としているが、今回の映画と似ていると思ってしまったのだ。そう考えると、古代オーズとオーマジオウの関係性も少し見えてきた。

 

〇スゴイ!ジダイ!コダイ!1210(推定)

主人公と同じ力を源流に持ちながらより強く、より悪意に染まりきった王。オーマジオウが未来の主人公なら、古代オーズは800年前の王(明確に先祖かどうかは定かではない)。オーマジオウは過去の自分を焚きつけることはしても基本的に殺すことはできないが、古代オーズは例え子孫だとしても火野映司を殺すことに関して何のデメリットもない。

 

なるほど、よく似た部分と正反対の部分が共存しているが、ここまで極端だと各要素が意図的なものに思えてくる。つまり古代オーズとは、オーズ10周年の間に別作品に生まれたキャラクターであるオーマジオウを、仮面ライダーオーズの文脈でリメイクした存在なんじゃないか。だから漠然と荒廃したレジスタンス達の世界設定もうっすら似ているのか。

話としては確かに先述の檀黎斗に通じるものがあり、一定の説得力を持たせる説明をしたつもりではいるが、まだ確証があるわけではない。もう1つくらい何かが欲しいのだ。

 

 

〇復活!英雄の魂!

筆者にはもう1つ、前回のブログを書いてからの心境の変化とでもいうものがある。あまりにも火野映司の死を悲しむファンが多いので、野暮だとは思いつつもしどうしても火野映司を蘇らせたかったらどうするか考えた。平成ジェネレーションズFINALの世界観を踏まえるなら(歴代ライダーは何故助けてくれなかったのかは一旦置いておいて)、まずは大天空寺に相談すべきだろう。歴代ライダーで死の淵から蘇った者は少なからずいるが、一年間通して生と死の物語を愚直に描き続けたのは仮面ライダーゴーストに他ならない。大天空寺に行けば、蘇る方法か、あるいは友の死との向き合い方とかそういうメンタルケアも含めて、何らかの知恵を貸してくれるだろう。

 

…待てよ、仮面ライダーゴースト?ここで筆者の脳細胞がトップギアとなり、いくつかの事象が突然繋がっていく。

”復活のコアメダル”の脚本担当は毛利亘宏氏。仮面ライダーオーズの脚本家である小林靖子氏にその才を見出され、オーズのうち何話かを執筆する形で東映特撮に関わり始めた。その後、作品メイン担当となると宇宙戦隊キュウレンジャーくらいであるものの、いくつものテレビ作品で数々の執筆をこなし、劇場版作品も手がける。ここに仮面ライダーゴーストも含まれる。

 

メインでない作品に関わっているからこそ、メインライターの意図から逸脱しないバランス感覚に優れていて、近年の代表作”スーパーヒーロー戦記”や”仮面ライダー ビヨンド・ジェネレーションズ”といったクロスオーバー作品も得意としている、と筆者は理解している。しかしながら、この10年の間にオーズ関係の役者がゲスト出演した映画には、あまり関わっていないのである。

そしてそうだ、仮面ライダージオウのオーズ回もまた、毛利氏の担当回である。エグゼイドにはほとんど直接絡んでない毛利氏が、ジオウとオーズを介して檀黎斗に絡んでいたのである。これは決して偶然ではない。

 

”復活のコアメダル”は仮面ライダーオーズの10周年であると同時に、時期的に仮面ライダーシリーズ50周年イヤーの締めくくり的な位置づけもあったのだろう。そこに来て毛利氏はオーズの完結編を作るにあたって、小林靖子氏の意思と仮面ライダーゴーストの生死観を受け継ぎ当時は出来なかった「告別式」を執り行い、この10年の仮面ライダーの総括的な意味で檀黎斗とオーマジオウを新たなキャラクターに再定義し直し、渡部秀氏らの協力を得て一本の映画にまとめあげた…

 

 

〇大丈夫、明日はいつだって白紙(ブランク)

筆者の妄想に過ぎないかもしれないが、”たぶんこうだったんじゃないか劇場”としては十分まとまったんじゃないだろうか。まさかエグゼイドとジオウの話を中心にこんな形に結実するとは最初は全く考えていなかったし、一度前回のブログを書いてみたからこそ新たな発見もあった。と言うのも先日、これを書き上げる直前で、もう一度”復活のコアメダル”を見に行ってみた。

 

筆者は前回のブログで「映司はやはり最後は満足しなかったんじゃないか」と締めたが、ここに関しては各自で好きな予想をしていいと思う。そういう余白を残してくれていて、筆者のようなひねくれた解釈も不可能ではない、という域だ。

しかし、熱心なファンが映司の死を嘆き悲しむ点に関しては、最終決戦直前の精神世界での映司とアンクの会話がもう答えを出している。やっぱり、火野映司はあの状況でああする以外になかったし、本人はその点に関して、自身の死に関して思った以上にアッケラカンとしていたのだ。そこに我々が文句を言い続ける意味は無い。

 

今一度あの映画に、いや仮面ライダーオーズに携わった全ての人達に感謝を込めてこう言いたい。

「10年間お疲れ様でした」

「復活のコアメダル」がもたらしたもの

〇最初に言っておく、これはかーなーりネタバレ

今回の文は映画Vシネクスト「仮面ライダーオーズ10th 復活のコアメダル」を鑑賞した前提で、アレがどういう映画だったのかを考察したものである。だから、未見の方はここで一旦引き返した方が得策だ。

 

本作は「感動した!超オススメ!」という言い方はしがたいのだが、それでも仮面ライダーオーズ完結編を謳う正規の続編であるので、可能であればフラットな状態から映画を見て、それからこの駄文を見て欲しい。

 

 

〇嫌悪と納得と賛否両論

「久しぶりの同窓会だと思ってウキウキして行ったら、クラスの中心人物の告別式でした」。単刀直入に言うとこれが今回の映画の正体。そこに強烈な違和感や嫌悪感を抱く層と、静かに受け止めながら自分なりに咀嚼して納得出来た層で、捉え方が著しく異なる。

 

そのため「賛否両論」というのは若干ニュアンスが異なる。より正確に言えばこれを実際世に出すことそのものの是非については賛否両論になってもおかしくないのだが。しかし感想はそれぞれに委ねられてるとはいえ「本編を冒涜、全否定している」という感想を持つのは少しだけ違うと思っている

ではなぜそんなことになったのか。

 

 

〇ハッピーエンドとバッドエンドとドクター真木

どんなに清廉潔白な聖人であろうと、ふとした事で人の命は失われてしまう。それは震災やコロナを経た今だからこそ、ヒーローも決して例外ではないんだと。それを本編の「生」というテーマと対比して徹底的に「死」をテーマに置いて作られた。

 

鴻上会長がずーっと「ハッピーバースデー=生」に拘り、ドクター真木がずーっと「よき終末=死」に拘っていて、テレビ本編では前者を肯定した。ただのメダルの塊だったアンクに様々な感情が芽生え、オーズと仲間たちとの強固な絆が生まれ、最後に後者を打ち倒す。それが本編の最終回だし、震災を受けた上での子供番組としての模範的なエンドだ。

しかし実際には、スタッフ間の初期案には火野映司が死んで終わるエンドが構想されていたという。

 

今回の映画で我々に突きつけられたのは「この生と死の対立を善悪二元論で確定してよかったのか、ドクター真木の意思は全く救いのない悪人の絵空事だったのか?」ということだと思う。この映画を”オーズらしい”と評価している人も、完全な肯定はしていないし、飲み込みきるには時間がかかることもあるだろう。そして本編を全否定されたと憤る人達の言い分にも一定の理解は示せるが、真逆の物をお出しされたからと言って「何も分かってない、ただの冒涜」と叫ぶのは違うのではなかろうか。


ちゃんと紐解けば仮面ライダーオーズという作品はずっと「欲望」と「生と死」を扱ってきていて、そこの軸は全くブレてない。ただ、子供の時のヒーローを10年経った今改めて見てみて、前述の疑問を大人の目線で今一度考えてはどうだろうか?という問いかけなのだ。

 

確かにこれは構造上どうしても”火野映司を殺すための物語”になってしまっているんだけど、じゃあ火野映司らしい最後の花道を与えるにはどうしたらいいかというのが今作。
だからこの映画に嫌悪感や怒り・嘆きを抱いている人達は、本当にそんな告別式に行ったとしたら同じリアクションをするのだろう。なんで死んじまったんだ!どうして!?と。それ自体は否定しない。

 

もちろん死んでよかった人なんてのはいないのだけど、どこかで「あいつらしい生き様だったな」って思えているのが肯定派。どっちの感情も存在しうるし、後者も別にただドライに構えているだけではないハズだ。全員が飲み込むことは不可能、あるいはせめてもっともっと長い時間が必要になる。告別式とはそういう事だ。

 

 

〇欲望とゴーダと火野映司

じゃあ肯定派は何をそんなに納得しているのかというところを考えたい。

 

筆者は火野映司は「底なしの欲望によって自分の命より他人を優先してでも助けたいから、本編終わってもどこかを旅しながら常に何かと戦って、傷つき倒れて、いつかどこかで野垂れ死にするタイプ」だと思っている。

 

古代オーズに敗北した映司が死の間際に思っていたのは「①あの女の子は無事逃げただろうか」「②アンクを生き返らせてあげたかった」「③古代オーズを何とかしないと、いつもの仲間や、世界の人々が…」の主に3点。

特に③に関して、本編序盤で拘ってきた”自分の手が届く範囲を助ける”を大幅に逸脱した範囲を考えてしまい(ただしそこに本人が生きているかどうかを勘案していない)、その巨大な欲望に紫メダルの残滓が反応して一瞬「グリードのような何か≒神」になったんだと思う。

比奈の言葉を借りるならそれこそが「都合のいい神様」なんじゃなかろうか。ただしそれは、みんなからの期待に答えたいとか、エネルギーをもらってパワーアップとかの類ではなく。
映司自身が死の間際に願った欲望を全部叶えるには、まさに神がかったデウス・エクス・マキナでしか解決できない。だからこそ、最後の最後に映司自身が自らの欲望で「都合のいい神様」になろうとしたからこその結末だったと。


そして②アンクを蘇らせ、もしかしたら①少女が生き延びたのもその影響かもしれなくて、その残滓はゴーダを生み出す力へと昇華される。
新グリードのゴーダは最終的にアンクらを裏切るも、「古代オーズを何とかする」「いつもの仲間の安否を確認する」という点においては確かに映司と目的③は一致している。また、ゴーダの力への執着は映司が本編終盤や映画「将軍と21のコアメダル」で願った「全てに手が届くほどの力」の曲解と見られる。


ゴーダは「自分が映司の体を動かしている。剥がしたら死ぬ」という状況になったけど、映司は「自分も生存してまたみんなで楽しく…」とかみたいなことは一切考えていなかった。そういう人物だから。自分に対してはとことん無欲で、それゆえに他人のことに関してはとことん強欲。


そんな映司のあまりに巨大な欲望だけど、すでに古代オーズ達に殺された人々はともかく、今後の犠牲者をなくすことには成功し、上記3つの欲望は満たされた。救済としてはむしろ十分なくらいの手厚いエンドだと筆者は思っていた…だが、火野映司は実は満たされていなかった。

 

 

〇死期と後悔と最後の欲望

火野映司は最後の最後に欲望が増えて、初めて「都合のいい神」から「普通の人間」に戻ったんじゃないか。映司は最後に目を見開いて悔しそうに生涯を終えている。前の段では3つの欲望が全て満たされたと書いたのだけど、それならそれで満足そうな笑顔で死んでも良かったんじゃないか。

 

全ての人々を守りたい底なしの欲望、ただし自分をその勘定の中に入れておらずひたすら無欲。そこには博愛はまだしも、自己犠牲とか贖罪とかそういった概念はない。だからこそ火野映司はヒーローにもグリードにもなり得る素養を持っていたし、周りの人達の期待が暴走すれば「都合のいい神」にもなってしまう。

それで前の段では映司自身が望んで「都合のいい神」になることでいくつかの奇跡を起こし、物語を終着させたと考えていた。ところが映司はこれに満足しなかった。

 

正確に言えば、死の間際でやっと「世界から自分がいなくなる」事を悟り、やっと自分に対する欲が出てきたんじゃないだろうか。あぁ、この仲間たちともっと一緒にいたい。この後の世界の復興も助けたい。もっともっと”生きたかった”と。

 

それが「普通の人間に戻った火野映司の生涯の幕引き」という結末であり、映司自身も最後にハッピーエンドを望んだのに手が届かなかったのだ。そしてアンクは、全てを悟りそっと映司の目を閉じる…

 

〇意図と是非と観客の願い

生と死の物語、果てなき欲望の物語、それをこういう形で発表すること自体が衝撃すぎて、様々なヘイトや嘆きの感情が渦巻いているのが今のSNSだ。だがしかし、決してこの映画は駄作では無いと思う。各人の受け取り方、飲み込み方の差によるものなのだ。以下は、SNS上でよく見られた「否定派の意見」に対して筆者が思ったことである。

 

・本編と真逆のことをやっている→それはそう。本編で否定した”死”を中心テーマにしているから。ただし、死そのものを賛美する話にはなっていない。

 

・本編でエモいとされているシーンの上っ面をすくって真似ているだけ→これもある意味でその通りだと思う。なぜなら映画が始まった時点で映司はほぼ死んでいるから。あの映画では「(著名人が亡くなった時の特番のような)告別式のお別れ映像、さらにはそれを愚弄するゴーダと、ゴーダに立ち向かう仲間たち」が描きたかったのであって、「映司の新しい活躍、新しい名言」を増やそうなどとはこれっぽっちも思っていない。復活したグリードやバース組の活躍も若干物足りないように思うが、彼らはあくまで告別式だから直接献花に来てくれただけだ。だからそれらを期待した層はガッカリする。そういう構造上の話だから、ゴーダに対するヘイトはともかく、制作陣にそこを追求するのはそもそもお門違いなのだ。

 

・こんな結末になるなんて不意打ち、騙された→ここもごもっともだと思う。筆者もお祭り感覚で最初は映画館に行ったから、そこをもう少しマイルドに宣伝できなかったのかという思いもある。

ただ、死というテーマを扱うにあたって「いつ誰に突然訪れてもおかしくない」という選択からこうしたのだろうとは思う。

 

・みんな揃ってハッピーエンドが見たかった→これは絶対にありえない。いや、最初に1回ふとそう思うだけならまだ構わない。しかし上記いくつかの意見はまだ理解できるが、”これ”は仮面ライダーオーズという作品自体を愚弄することだと思う。なぜそう言い切るのかを、この文書の最終章として以下にまとめたい。

 

 

〇願いとメダルと満たされぬ欲望

逆に「映司とアンクが協力して強敵倒してめでたしめでたし、比奈ちゃんと知世子さんと一緒にこれでまた皆で仲良く暮らせるね、鴻上グループの人達も時々顔を出して、クスクシエは今日も平和だなぁ…」っていうエンドだったら彼らは満足するのだろうか?

筆者としてはこちらの方が「…お前、誰だ?」案件だと思う。

 

「主人公グループの一人がお亡くなりになって悲しみに包まれるも、なんやかんやあって蘇り、俺たちはこれからもずっと一緒だぜ相棒!」というパターンは、実はそのままダブルの最終回、あるいはフォーゼ終盤の歌星健吾周りのエピソードだ。それら2作はそういう作劇だからよかったし、ダブルは正式続編「風都探偵」に、フォーゼはその後の話に繋ぐこともできた。彼らのチームは主人公(ダブルに関しては2人)とそれを取り巻く仲間たちで強固なチームを作っているので、チェスや将棋のようなものに例えられる。

 

火野映司とアンクの関係性はそれとは異なる。終盤では互いに信頼や友情、恩義のような物で結ばれているように見えるが、彼らの根底にあるのは「己の欲望を満たすための損得」だった。仮面ライダーオーズは欲望の物語だから。だから筆者は映司とアンクの関係性を「並び立つ最強コンビ」ではなくて「メダルの表裏」と例えたい。どちらも互いに必要とし合っているが、一見共存しているように見えるが、本来はどちらかしかその場に存在できないのだ。

タジャドル(エタニティ)とはメダルを立ててクルクル回している状態。そしてメダルが止まって倒れる時に映司が上向きなのが最終回、アンクが上向きなのが今作。同時に満たされ続けることはできない。それを比喩的に話に組み込んだのが「等価交換」や「楽して助かる命はない」ということである。

 

今回の映画を受けて本編を過大にハッピーエンド視している人がいるが、本編の結末は「アンクを助けるに至らなかった」、欲望は満たされなかったのである。だからアンクを蘇らせたいという新たな欲望ができた。結果として前向きなエンドのように見えるが、それは子供番組としての最大限の配慮であって、実は仮面ライダーオーズ本編はバッドエンドなのである。

 

その満たされない欲望を求めた火野映司は、時に他の仮面ライダーと”助け合い”をしながら、時にアンクと一時的な邂逅を果たしながら、さまよい続ける欲望の亡霊であった。あるいは、映司とアンクの新たな物語を欲する我々視聴者にとっての「都合のいい神」になりかけていた。実際に自ら進んで「都合のいい神」になって客演を続ける仮面ライダーも中にはいるだろう。しかし火野映司をそこから解放するためのまさしく「完結編」が、映司を殺すための映画、復活のコアメダルなのだ。

 

その結果として、先述のように映司の欲望は完全には満たされないまま無念とともに亡くなり、当然仲間たちの欲望も満たされず、ハッピーエンドを望んだ観客達もまた満たされなかった。

ではこの映画で誰のどんな欲望が満たされたのか。それは、火野映司を演じた渡部秀自身がインタビューで言っていた「これで映司はやっと救われた」に集約されるのだと思う。渡部秀自身が、バッドエンドから火野映司を救いたかった、そのための10年目の告別式だ。だから彼は、かつての仲間やスタッフに必死に呼びかけ、作品作りに誠意を持って挑んだ。一部で「裏のプロデューサー」と揶揄されることもあるが、彼自身が一番火野映司と向き合い続けた結論なのであり、意味もなく殺そうなどとは決して思っていない。

 

主人公の死を受け入れることはすぐには無理かもしれないが、この映画自体は本当にオーズ愛、いや火野映司愛に溢れた作品であるので、否定派の人もできればもう一度作品と向き合ってみてはどうだろうか。

「集める」とは〜1人のコレクターのたわごと〜

〇果てなき収集スピリット

この駄文にたどり着く方の多くは、特撮だのアニメだのと言ったものにハマっているだろう。作品への愛を示す1つの形として、グッズを集める。筆者もその1人で、30年以上に渡って特撮関連グッズを収集し、またその一部を手放してきた。途中にはポケモンカードにハマっていた時期もあるし、ミニ四駆ベイブレードやビーダマンも持っていたし、たくさんの物が流れて行った。その度に思う「あー、金と収納が足りねー…」、これは誰もが少なからず共感してくれると思う。それは単に貧乏だからとかではなくて、もっと根っこの部分で思うところがあって、また長文を書きなぐりたくなったのである。

 

スマホゲー、やってる?

何の話かはおいおいわかると思う。筆者は今、ポケモンGOだけやっている。正直な話、熱量も時間も金銭も、他のにつぎ込むほどもう持ってない。この後の文章は、スマホゲーを作ってる人達や入れ込んでいる人達をバカにしたい訳では無い。あくまで1個人の感想だ。そこだけは断っておく。

 

何曜日の何時からイベントスタート!新キャラ限定ガチャスタート!タスクをこなしてパワーアップ!

だいたいどこのスマホゲーでも聞く文言だ。作ってる人達は消費者にゲームに没入してほしいから、身も蓋もない話をすればそういう商売だから、このようなイベントを次々用意する。

 

筆者はポケモン図鑑とかも全部キッチリ埋めたいタイプの人間なので、この手のイベントもなるべく全部こなしたい。好きなキャラが出た時だけ頑張って、たまに遊ぶくらいでいいやという人がいるが、これはむしろ苦手なのだ。

それでどうなるかと言うと、当然続かない。他の趣味や仕事、体調といった要素に左右されて、取れない要素が出てくる。そこでふと我に返って「スン…」となるのだ。あーもういいや。これは僕向けのものでは無かった。僕の生活時間をお前が勝手に決めるなよ。

だから、戦隊やライダーのスマホゲーが出ても頑張れるのは最初だけだし、「仮面ライダーとコラボします!」なんてゲームが乱立してもそのためだけにそれに注力しようという気は起きない。ポケモンGOだけかろうじて僕の中で生きてるのは、本編ソフトに送れる公式色違いがそれなりに手に入るからだろう。

 

〇こうして私はFiguartsをやめた

同じような事がフィギュア集めにも起こった。筆者はS.H.Figuartsシリーズが立ち上がった最初の頃から、ライダー、戦隊、プリキュア、その他気になる特撮やアニメのキャラクターは出るもの全て根こそぎ買い集めた。その頃はまだ、予約もしくは朝イチすれば普通に手に入る環境だったのもある。

 

しかしそれはやはり続かなかった。部屋の収納や毎月増え続ける支払いに嫌気がさして、数年前にごく一部のお気に入りを残して売ってしまった。いや正確に言えばクレジットの支払いの足しにして、もういいや、となってしまったのだ。

 

思えばこうしたフィギュアとかも、構造的にはさっきのスマホゲーの話と同じだ。運営から提示されるイベントをただこなして行くだけになってしまってないか。もちろん一生懸命集め続けている人をバカにしているのではない。僕のライフスタイルの限界だっただけだし、晩年は買い集めただけで満足してロクに開封もしてない物も目立っていた。それはもったいないという想いだ。

 

〇今また繰り返すコレクター

で、フィギュアが減ったかと言うと、今度は装動などの食玩フィギュアに移っただけだ。小さくなって場所は取らなくなったようで、戦闘員とかを大量に買うのでスペース的にはなんやかんや足りない。単価が安く組み立てを伴うので、次に金欠の足しにすることはできないだろう。しかし今また、毎月のように出てくる新商品にウンザリしている。いいモノ作って売りたいのはわかる。追いかけたい気持ちもある。だがそろそろまた限界かもしれない…それで装動のミラーモンスターセットなどの「再現には絶対欲しいけど、正直お高い物」のいくつかを買い逃した。

 

同じことをずっと繰り返しているし、新しいスマホゲーとかまで手を出す気が起きないのは当然だ。それもまたコレクターの苦悩として、わかってくれる方も一定数いるのではないだろうか。同じもの・作品をずーっと集め続けている人ってのはそれだけですごいのだ。もちろん僕も、手放さずにコツコツ集め続けているマニア垂涎のレア物とかはある(そういうのを紹介するのもそのうちやりたい)。

 

こういう事を書くと「買ったものを手放すなんてコレクター失格だ!」みたいな論も出てくるかもしれないが、人によってはそういうタイプも正解なのだと思う。とりあえず集めてみて、取捨選択して、やっぱり違うものはやり直す。それで自分よりもっと大切にしてくれそうな人に譲渡したりとかもあっていい。そういうスクラップアンドビルドの果てに、自分なりの納得いくコレクションとの向き合い方を形成して行けばいい、と言い訳しておく。

 

〇コレクションとの新しい向き合い方

買っても開けなかった理由のひとつに「遊ぶ」という概念が足りてなかったのかもしれない。世間的にはどうかわからないが、その頃はまだフィギュアでカッコイイ・面白い写真を撮ってみんなに発表するという環境ができていなかった。いや正確には、当時のケータイのカメラで必死に撮って、当時の無料ケータイサイトで細々と作品発表はしてたのだが。

 

今、映えを意識したプラモ改造「エレクトリカルミニプラ」や、美少女プラモを使った写真を撮りまくっているのは、やはり人に見てもらいたいからだ。承認欲求の塊だ、出すからには何かしら褒められたい。そしてそのために必要な被写体や材料に、お金や情熱を注ぐようになった。それでいいと思うし、また何年か経ったら変わっているのかもしれない。それが自分自身のコレクター道だと胸を張って言えるのなら。

 

それである時突然やっぱり欲しくなって、馬鹿みたいな値段で買うことになっても、「やっぱり欲しい」なら仕方ない。その情熱が燃えているんなら、まぁ無理のない程度にまたビルドすればいいのだ。そうやって自分のコレクター道を何度も何度も舗装してはやり直して、切り開いていくのが楽しいのである。

もちろん、継続は力なりを地で行ってる人たちも、ともに頑張っていきましょう。

 

〇お宝の順番待ち

古い玩具だったりグッズというのは当たり前だがもう生産されていないので、新しくそれを手に入れるには持ってる人が手放すのを待つ以外にない。古い玩具屋のデッドストックが見つかったならラッキーだが、相手もコレクターであった場合はなかなか譲ってはくれないだろう。はっきり相手を認識していなくても、漠然と市場を睨み合うことしかできないのだ。

 

だからコレクターの皆さんが何かを手放す時には、ホントにどうしようも無いもの(保管中にカビたとか)以外は捨てずに、信頼出来る仲間とか適切な市場に放出して欲しい。僕も未だに後悔している。必死に集めた最初期のポケモンカード、もうだいぶ前にネットオークションでそこそこの値段で売っちゃったけど、今のまんだらけとかの相場でまとめて売ったらガチで車とか買えるレベルには持ってたなぁ…と(笑)

最終カイ前に予想する、神とは何か?

〇これは最終話前に書いています

スーパー戦隊シリーズ第45作「機界戦隊ゼンカイジャー」が、これを書いている時点で残すところあと最終話だけだ。最終話が終わってからの全体総括みたいなのはまた改めてしたいのだが、いわゆる”ラスボス”として君臨する自称”神”とはなんなのか、今わかる情報から独自に推察してみたい。もちろん最終話が放送されたら「いやお前の文、全然的外れじゃねーか!」となる可能性も否定はしない。それはそれとして、今思っていることをひとつの文にまとめたいくらいの溢れる思いがダイゼンカイなのだ。だから1つの読み物として楽しんでいただけたら幸いだ。

 

〇日常ってぶっちゃけ何よ

筆者は以前「ゼンカイジャーとはなんだったのか」という記事でざっくりこう予想している。『ゼンカイジャーは男児向けヒーローの”戦闘パート”と女児向けプリキュアの”日常パート”をハイブリッドしたヒーロー』。その詳細は改めてそちらをご覧頂きたいのだが、ゼンカイジャーは1年かけて彼らの日常をつむぎ続けた。

 

 

その結果、終盤のバラシタラ戦でステイシーは「これから自分が共に歩んでいく日常」、ゴールドツイカー一家は「気づいたら持ってたお宝=日常」と、やはり日常を取り戻すためについに強敵をうちやぶる。ゼンカイジャーもレジェンド戦隊の助けを借りて大王ボッコワウスを倒し、日常を取り戻す。おお、やはりスーパーハイブリッド香村純子は恐ろしい。なんたるカタルシスだ。

 

「…ちょっと待って、”日常”ってぶっちゃけ何よ」。人間世界とキカイトピアが融合し、なんやかんや共同生活が始まり、渾然一体とした”日常”。そうだ、考えてみればプリキュアの妖精もキカイノイドも、冷静に考えたら明らかな異物だ。いやでも、そういうのコミコミで守るのが戦隊やプリキュアの日常じゃないですか。ていうかあんた誰?

 

ゼンカイ世界の自称”神”は恐らくここを突いている。視聴者にとってももはや日常であった”非日常”を、いやいやそれって変だよね、おかしくない?と語りかけているのだ。それでこの自称”神”の正体と言うのが、筆者は「めちゃくちゃ几帳面な、研究者もしくは編集者」だと思っている。

 

〇神の正体候補①理系の研究者

筆者は理系大卒なので、試験や実験の時に口を酸っぱくして言われるあるワードを思い出す。「外乱の影響を考えなさい」と。理系じゃない人にわかりやすく例示するとこうだ。

 

あなたが小学生だとして、ちょっと変わった爬虫類か何かを観察して日記をつけることにした。しかしそこにお姉ちゃんが現れ、気持ち悪いと捨ててしまった。あるいは家の猫に食べられてしまった。

これでは観察日記にならない。であればどうするのか。それはお姉ちゃんの行動範囲から離れた場所に移し、猫が開けられない箱を用意することだ。

 

これはざっくりした例えだが、理系の研究者と言うのは多かれ少なかれこのように「〇〇は無視できることとする」を作ることに腐心する。電気ノイズが入れば正しいセンサ信号は得られない。納豆菌が混入すればどんなに素晴らしい酵母もあっという間に全滅するのだ。

外乱の入らない環境、特に物質の移動を許さないのが物理用語で「閉じた系」であり、理系的に見たトジルギアの効能は閉じた系を作ることだ。突然殺されないだけ閉じてた方がマシなんじゃないかと言う側面もあるが、いや俺たちはお前の実験動物じゃない、もっと自由だとそういうタイプの敵に抗ってきたヒーローヒロインは確かにいる。ニンジントピアもダイコントピアも、それぞれを純粋培養するために作り出した世界なのであれば、理系脳的には理解出来る。

 

〇神の正体候補②文系の編集者

これまた正反対の要素のような気がする。スーパー戦隊シリーズではない例えで恐縮なのだが、週刊誌で分冊百科というのがあるだろう。仮面ライダーオフィシャルデータファイルとかがそれに該当する。筆者の考えるもうひとつの候補は、こういう物や図鑑などを作っている存在なのだ。

 

仮面ライダー1号の項目をまとめあげた編集者はふと我に返る。「仮面ライダー1号はその後も数々の仮面ライダーのもとに現れ、ピンチを救った」、なるほどそうだ。そうするとこの項では仮面ライダーBLACK RXだとか、仮面ライダー鎧武だとかの内容もちょっと触れないといけない。そして仮面ライダー鎧武は烈車戦隊トッキュウジャーと交流したこともある…トッキュウジャー?何だこれは?仮面ライダーの本を作っていたのに戦隊が紛れ込んできた。どこからどこまで網羅してファイリングすればいいのだ?

 

今「ファイリング」と言った。トジルギアとは、ひょっとして”綴じる”ギアなのではないか。事務職の人ならよく見るだろうキングジム社のあの無骨な青いファイルが、あるいは学校でよく使う薄緑のあの紙ファイルが、いろんな項目を各ファイルに纏めて綴じる行為そのものが「綴じるギア」なのだ。さっきの「閉じるギア」とダブルミーニングになっていたのではないかという説。外乱を防ぐのが閉じるギアなら、しっちゃかめっちゃかな内容・内乱を整理するのが綴じるギア。だから神ステイシーは「元いた世界にお帰り」と、キカイトピアの一般人を地球からキカイトピアにファイリングし直していたのだ。

 

〇あの時確かに交わった

各世界をきっちりファイリングして、たくさんのファイルをきっちり本棚にまとめる。理系側だったとしても報告書やデータファイルみたいなものは作るだろう。とにかくそういう几帳面さが神の行動に現れているのだ。それが「めちゃくちゃ几帳面な、研究者もしくは編集者」と言った仮説の真実だ、お分かりいただけただろうか。

 

ところで、そういう”本棚”をこれまでゼンカイジャーのどこかで見かけなかっただろうか?…いや違う。鎧武とトッキュウジャーが交わったように、ゼンカイジャーも仮面ライダーと交わっている。それは映画「スーパーヒーロー戦記」だ。仮面ライダーセイバーの世界、アガスティアベースの中に封じられた禁書…仮面ライダースーパー戦隊の物語がびっしり並べられたあの本棚。神とは、あの本棚を作った者(もしくはその同族)なのだ。だとすれば仮面ライダーダブルの「地球(ほし)の本棚」もその系統なのかもしれない。地球上のありとあらゆる事象をファイリングした”誰か”が確実に存在したのだ。

 

映画の敵アスモデウスが全ての物語を解放しようとしたのと正反対に、神は本棚にキッチリ纏めたいのだ。よく「戦隊は仮面ライダーのオマケ」と揶揄される。スーパーヒーロー戦記のシナリオを書いているのはセイバー側の毛利亘宏氏だから、バランス的にセイバーに寄るのは仕方なかったのかもしれない。だがしかし、もしここまでの推察が真実なら、スーパーヒーロー戦記で”本棚を見せること”そのものがゼンカイジャーにとっての大いなる伏線だったと見ることも出来ると思う。そして神に抗う者アスモデウスは、戦隊とライダーがなんやかんや倒したので、神が手を下すまでもなかった。いやもしかしたら、石ノ森章太郎をスーパーヒーロー戦記の時空に呼び出したことすら神の御業だったのかもしれない。

 

〇物語の結末は誰が決める

ただし編集者と言っても作者ではない。そこがこれまでの戦隊の神がかったラスボスとは異なる点だ。簡単な干渉はできるが、直接手出しをすることはできないか、少なくともしない。まぁオミクジトピアを丸ごと消している以上、ファイルそのものを消去すると言ったとんでもない力は持っているのかもしれないが。

 

しかし神にとっては各世界の行く末そのものには興味が無い。黒十字軍がゴレンジャーに勝利して世界が黒十字軍トピアになったとしても、多分それはそれで構わないのだ。「物語の結末は俺が決める!」そうですか、どうぞどうぞ。ただ勝手に他と行き来するのだけはやめてね。だからトジテンドにも干渉するし、ゼンカイジャーにも干渉する。明確な「悪」ではないのが一番ややこしいが、神がこのタイプの存在であるのなら、完全消滅よりも一定の和解で終わるのだろう。「お前達のこれからをじっくり見させてもらうよ」的なやつである。落とし所としてはそれがベターのように思えるし、スーパーハイブリッド香村純子がさらにナナメ上の回答を持ってきたらそれはそれで大したものだ。

 

そこまで予想して、最終カイを皆で楽しもうじゃないカイ!

今こそ特撮オタクに勧めたいプリキュア

プリキュアはいいぞ

筆者は、幼い頃から30年以上ずっといわゆる”ニチアサ”を愛し続けてきた。平成ライダーもまだない、戦隊もまだ平日夕方にやっていた、メタルヒーロー+女児アニメ体制の頃から、日曜の朝はテレビ朝日と相場が決まっていた。そんな僕から見て、ニチアサで戦隊ライダーだけを好んで見ている特撮オタク層に強く言いたい、プリキュアはいいぞ、特撮のオタクこそプリキュアに行け!(CV阿部寛)

何がそんなにいいのかここでは述べていこうと思う。

 

〇そもそもプリキュアとは

ざっくりプリキュアとは何かを説明すると、ひょんなことから妖精や異世界人と交流することで伝説の戦士プリキュアに変身できるようになった普通の女子中学生(一部例外もある)が、悪の組織と戦う物語である。うん、そう書くとスーパー戦隊シリーズと大して変わらない、いわば女児向け戦隊という気がする。しかし両者の物語の構造には、大きく違う点がある。

 

プリキュアの物語において軸足が置かれているのは、女子中学生たちの日常なのだ。いつも通り朝起きて家族と会話し、学校で過ごし、街の人たちと交流する。そんな何気ない日常の中に、妖精や異世界人といった”ちょっと違うもの”がごく自然に溶け込んでいる。正体を隠すためにアタフタするといった回もあるのだが、そこも込みで「日常の一コマ」になっているのだ。

するとそこへ、悪の刺客が現れる。狙われる街、脅かされる平和、襲われる周りの人達。少女達はプリキュアに変身し、これを退治する。

平和に戻った街で喜び合う人々。中断されていたスポーツの試合が再開したり、学校行事が無事に幕を開けたりする。あぁよかった、これで私達もみんなで遊びに行けるね。めでたしめでたし。

 

…今の文章に違和感がなかっただろうか。戦闘の部分、”プリキュア”の部分をめちゃくちゃ端折ってなかっただろうか。若干大袈裟な例えだが、これがプリキュアの配分である。戦闘そのものを目的としていないから、プリキュアの戦闘パートの比重がものすごく少ない。それでいて今の戦隊に比べて、バンク映像(変身、名乗り、キメ技)を毎回丁寧に使い続ける。新規の戦闘映像は本当に短いのだ。それは彼女たちにとって、ごく一部の強敵を除いて、変身や技そのもの=勝ちフラグ水戸黄門の印籠だからに他ならない。どんな熱い戦闘を繰り広げるかよりも、そのあと食べに行くパフェの方が大事なのだ。ただもちろん、決して無責任という意味ではない。地球や世界の命運をかけて戦っているのは、戦隊とそこまで変わらない。ではなぜ、何がそんなに違うのか。

 

 

プリキュアは日常没入型アニメである

その違いは番組作りの、ビジネス構造の違いにあるものだと思う。戦隊やライダーの主力玩具商品である”なりきり”アイテムは、悪(仮想敵)を倒すために文字通りヒーローになりきって遊ぶための変身ベルトや武器を指す。プリキュアの商品群にも同様のアイテムは確かに存在しているし、なりきりアイテムとしては究極とすら言える女児向け公式コスプレ衣装を毎年ご丁寧に販売している。しかし実は、”プリキュアになりきる事”はプリキュア商品群の本質ではない。その本質は”非日常をどれだけ日常に落とし込めるか”なのだ。

 

ほとんどのプリキュア作品に登場する妖精。作品によって差はあるが、平和な異世界からやってきた小型の生物。ある者は住処を追われ、ある者は重要アイテムを探しに、なぜ現れたのか物語序盤では明かされない者もいるが、プリキュアたちにとって非日常との最初の接点が妖精(もしくは敵)である。ある者は自身の体を変身アイテムに変化させ、ある者は不思議な端末に宿り、あるいはそのままの姿で、とにかくプリキュアの日常に入り込み、長い時間を共に過ごすパートナーでありながら、明らかな”異物”なのだ。

 

この妖精に関する玩具もなりきりと同等かそれ以上の重みを持って発売されるが実はこれがキモなのだ。プリキュア玩具を求める女児層にとっても、これらの妖精が「非日常との最初の接点」に他ならない。女児達にとって妖精のぬいぐるみは新しい家族であり”お迎え”する。するとぬいぐるみは番組と同じ声で喋り出す。コミュニケーションを求め、お世話を求め、とにかくこちらに語りかけてくる。男児玩具にも本人ボイスが入っているものはあるが、あれとは意味が異なる。彼女たちは妖精と擬似同居しているのだ。プリキュアの世界にどっぷり没入させる。

 

そしてこう語りかける、新しいオヤツが欲しいと。その時プリキュアは、敵を倒して、奪われていたアイテムを新しく手に入れている。プリキュアのコレクション系小物アイテムは、妖精のお世話に結びついている。男児たちが自身を強化するために小物を集めるのと同様に、彼女たちは新しいお菓子やお世話グッズを集め、妖精に尽くすのだ。そしてその献身を可能とするために小物アイテムを読み込む「お世話端末」(妖精と遊ぶミニゲームなどが楽しめる、タブレットなどを模した単独で1万円近くする結構な高額アイテム)がある。それらを通して、彼女たちはただのぬいぐるみやドット絵を家族と錯覚し、1年間行動を共にする。これは強烈な没入体験だし、販売側も別に悪気があってやっている訳では無い。その擬似同居を楽しんでもらうのがプリキュアの真のエンタテインメントだ。変身は実は二の次なのである。

 

 

〇おっさんはプリキュアに没入できないのか

女児を没入させて疑似体験してもらうのがプリキュアだというのは説明した。しかしこれを成人男性がそのまま同様に没入できるかと言ったら…まぁ無理だろう。それではなぜ、特撮オタクにこんなにプリキュアを推すのかと言う話、それはここからが肝心だ。ここで、シリーズ第15作「HUGっと!プリキュア」(以下ハグプリ)を例にとって説明する。ちょっと特徴的な固有名詞がいっぱい出てくるけど、そういうもんだと思って読んで欲しい。

 

ハグプリは、不思議な赤ん坊”はぐたん”の育児と戦闘を両立する”ママさんプリキュア”。もちろんこれまでの説明通り、普段は普通の中学生として生活しているし、戦闘の比重がそこまででもないのでどうにかこうにか両立という印象だ。

 

対する敵は、人々の明日への活力、希望の力”アスパワワ”を狙うブラック企業クライアス社(暗い明日ってことね)。ネガティブな感情で心がトゲトゲした人間はアスパワワがトゲパワワに変化する。クライアス社の刺

 客はトゲパワワの持ち主を見つけるとそれを利用して、怪物オシマイダーを発注して街で暴れさせる(本当に「発注、オシマイダー!」の掛け声で書類にハンコが押されて誕生するのだ)。

 

ある日街に、仕事に失敗し絶望するサラリーマンがいた。「もうおしまいだ…」と嘆くサラリーマンに忍び寄るクライアス社の刺客。そしてサラリーマンのトゲパワワで生み出されたオシマイダーが街を襲う。

そこに現れるハグプリの面々。ハグプリの中心人物、戦隊で言えばレッドにあたるピンクキュアはキュアエール。両手にポンポンを持った”元気のプリキュア”、口癖は「フレフレみんな、フレフレわたし」。そう、キュアエールは被害者にエールを送り、明日への希望を取り戻させるプリキュアだ。しかしその普段の姿は素敵な大人に憧れるいわゆるドジっ子であり、どちらかと言えば日常パートでは失敗続きなのである。

 

プリキュアとオシマイダーの戦闘を見ながらある時ふと我に返る。あれ、あのサラリーマンってもしかして俺の事なんじゃないか?先週の仕事で怒られて、心がトゲトゲしかかった今の自分の写し鏡なんじゃないだろうか。その時、画面の中の少女たちは必死にエールを送ってくる。失敗したって大丈夫、また明日、頑張ろう。自分たちだって赤ちゃん育てながら必死に戦ってるのに、この子達はアスパワワに満ち溢れている。

 

やがてプリキュアのキメ技が炸裂し、オシマイダーは「ヤメサセテモライマース」と定番の負けセリフを言いながら、満面の笑みとともに浄化されていく。元に戻ったサラリーマンは、また明日頑張ろうと、市井に戻っていくのだ。

 

…うん、いいアニメだった。俺も明日もう一度頑張ってみようかな。そう思う視聴者の胸に、アスパワワは確かに灯っている。

 

そうこれが、おっさんがおっさんのままプリキュアに没入する体験である。プリキュアが守るのは「そこにある日常」であり、その中には男児も女児もオッサンもオバサンもじいさんもばあさんも全部含まれる、その中の1人になってしまうのだ。

女児の父親として一緒に見ている男性はプリキュアの父親の目線で楽しんでもいい。やがてこの娘が中学生になって、ある日突然「私は実は伝説の戦士で、悪者と戦っていて、これから敵地に乗り込むの」と告白された時、プリキュアの父親のように優しく振る舞えるだろうか。いや、そうなろうとする気持ちこそが大事なのだ。プリキュアにならなくていい、守られる側で大いに結構、いいからとにかくそこにいなさい。それが大人流のプリキュア没入術なのだ。

 

ちなみに1個ネタバレすると、ハグプリの最終決戦では地球人類70億人全てがプリキュアに変身するので(マジで)、あなたも私もプリキュアです。おっさんはおっさんのままプリキュアになってもいい、唯一の例外です。

 

 

〇ミラクルライトを手に取って

もう1つ重要な大人流のプリキュア没入術があるのだが、先にお断りしておくと、これはコロナ前の方法論であって現在その通りに実践することができないのだ。なので、そのつもりであくまで読み物として読んで欲しい。

 

大人が大人のままプリキュアに没入する魔法のアイテム、それが”プリキュアラクルライト”である。ミラクルライトとは、劇場版作品の入場特典として女児に配られる小型のLEDライトで、劇中でキャラクターが呼びかけたらそれを振ってプリキュアを応援すると、なにやら奇跡的な力を得てプリキュアが大逆転するというものだ。いや待て、そのくらいは何となく知っているが、チビッ子専用の入場特典と大人の没入になんの関係があるんだ、と思ったアナタに朗報です。ミラクルライトは映画館の売店で買えます。配布版とは違う派手なストラップヒモのついた、少し値の張る大人用ミラクルライトはマジで売っています。ただしこれは知る人ぞ知る超プレミアムVIPパスポートなので、初日の朝にはだいたい完売してしまうため、知らないファンもいるのだ。では何がそんなにすごいのか。

 

プリキュアの映画はスケールが普段と大きく異なる。いつものメンバーは異世界に迷い込んだり、海外旅行に行ったり、日常から少し離れた舞台を訪れることが多い。そしてそこで守るべき対象は、新しく知った場所や新しい友達をメインとするし、もちろんいつもの日常も含まれる。というのも映画版は敵キャラのスケールも大きいので、基本的に「放置したら地球や世界があっという間になくなる」くらいだと思っていい。そうなると当然、いつもの日常も守る対象に包括されるのだ。またこの非日常を演出するため、やたらと芸能人ゲストを声優に起用する。

 

新しい舞台で新しい友達との交流の先、やがて現れる物語の黒幕。とてつもない力で蹂躙されるプリキュア達と世界。映画プリキュアには東映アニメーションが誇るドラゴンボールやワンピースにも携わったベテラン作画スタッフがガッツリ投入されるので、戦闘シーンもいつもの何倍も激しく、今どき男児特撮でも見ないほど無惨に破壊し尽くされる街の絶望感。打ちひしがれる市井の人達。真っ暗な映画館の中で、あぁこれもうホントに世界は終わりなんじゃないだろうか、大の大人でもそう思ってしまう。周りの女児の何人かはもう泣いているかもしれない。

 

するとそこに響く、か細く小さな、しかし確かな妖精達の声。「みんな、プリキュアラクルライトを振って、プリキュアに力を!」そうだ、私たちにはまだ希望がある。今こそあのライトを使う時なんだ。周りの女児達が一斉に灯りをともす。そしてスクリーンにも、いつの間にかミラクルライトを持ったガレキの中の市井の人達、そう、そこにはオッサンもオバサンもいる。俺達も私達もプリキュアの勝利を必死に願うのだ。大声を出すのはさすがに周りに配慮するが、今こそミラクルライトに光を灯し、心の中で一緒に叫ぶんだ、「頑張れプリキュア!」と。他の映画では決して見た事のない眩い客席、その光に包まれ、新たな姿を得たプリキュアが今こそ立ち上がる。「頑張れプリキュア!」

 

ここまでこの駄文に付き合ってくれた諸氏ならもうわかるだろう、ミラクルライトの力を得た新フォームとは勝ちフラグだ、水戸黄門の印籠だ。ここまで来れば大丈夫。しかしここまで来るためにはプリキュア達の力だけでは足りなくて、ミラクルライトを持ったみんなの力が必要だった。いつも我々を助けてくれるプリキュアを、今度は我々が助けるんだ。その一体感で女児達は歓声を上げ、大人達は安堵する。頑張れプリキュア!ありがとうプリキュア

 

…うん、いい映画だった。しかしこの高揚感はなんだろうか。そうそれは、プリキュア映画は物語に没入してみんなで敵を倒す物語だからに他ならない。その証拠にその手に握られているだろう、紛れもなく周りの女児達と同じ、プリキュアラクルライトが。

 

…どうでしょう、大人もミラクルライト欲しくないですか?プリキュア映画見たくないですか?

大人用ミラクルライトが超プレミアムVIPパスポートだと前述した。それはこの超ド級の没入感を、大人でも女児たちと一緒に贅沢に享受するためのものだったのだ。そして大きいお友達はなるべく後ろの席を取ろう。その方が、前の席で元気いっぱいプリキュアを応援する女児達の熱量がミラクルライトに灯って輝く、大人だからこそわかる一番の絶景だからだ。プリキュアってすげぇな、となるのだ。

 

ただしこのミラクルライトに関して、やってはいけないことが3つある。

まず、この体験のためにと我先に売店に駆け込み、女児を押しのけるようなことはしてはならない。

次に、ミラクルライトタイミングが来ても、没入するあまり大の大人が大はしゃぎしてはいけない。これら2つは大人が大人としてプリキュア世界に入るためのマナーだ。

最後に、この大人用ミラクルライトは転売したり転売から買ってはならない。というのは、先述した没入体験というのは、まだ誰も結末を知らない、一番アスパワワに満ちた女児が沢山集まる初日初回こそが一番効果を発揮するので、届くのに時間がかかって平日の夜に1人でこっそり行っても意味が無いからだ。買うからには今その場で見ろ、賞味期限はまぁせいぜい今日いっぱいなんだ、と。

 

…で、コロナの影響で今この体験をこの通り全部享受することはできない。この駄文を少しでもいいと思ってくれた諸氏なら、過去作の円盤を見るだけでも何となく言いたいことはわかるかもしれない。また、ミラクルライトの系譜も形を変えて何とか存続しようとはしている。願わくば、また女児達が元気にプリキュアを応援できる世の中に早く戻ってほしい。そしてそのためには、今一度我々大人が力を合わせる必要があるのだ。さぁミラクルライトを手に取ろう!頑張れプリキュア

 

〇胸がパチパチする程騒ぐ…

少しまた別の話をさせてほしい。筆者はドラゴンボールもリアタイ世代で大好きだ。その中で一つだけ、ごく最近まで解せなかった概念がある。元気玉ってなんだ?と。

 

これもまたざっくり説明すると、元気玉とは孫悟空の技の1つで、周囲の生きとし生けるもの全てからちょっとずつ元気をわけてもらい、強力なエネルギー弾として練り上げる技だ。それはわかる。

前エントリー「ゼンカイジャーとはなんだったのか」で、必殺技とは必ず殺す技、水戸黄門の印籠だと書いた。出せば勝ち確定の最強技…か、元気玉は?

漫画原作で元気玉が使われたのは4回、最初の1回は練習でガレキを壊しただけなので、これはノーカウントでもいいかもしれない。魔人ブウを完全消滅させた最後の元気玉は間違いなく必殺技だろう。カウント外だがGTの最終決戦も元気玉で決着した。しかしベジータフリーザに放った元気玉は、弱らせこそしたものの、トドメを刺すには至っていない。”必ず殺す技”では無いんじゃないかと。

 

ところがドラゴンボールは劇場版になるとこれが大きく異なる。元気玉でトドメを刺す作品がやたら多いのだ。そう言えばZ前半では毎週主題歌で「元気玉」のワードを聞いている。アニメオリジナル展開だと言うならさっきのGTもこちらに含まれるのかもしれない。ここの乖離がなぜ起こるのか、子供ながらに疑問だったのである。

 

この文をずっと読んでくれた人はもう言いたいことがわかっているだろう。同じ東映アニメーションに作られた、劇場版の元気玉プリキュアラクルライトの先祖なのだ。「地球のみんな、オラに元気を分けてくれ!」の”地球のみんな”に、没入した観客全員が内包されるのだ。まだ映画館で光や声を出したりするのがご法度な時代(まだと言うか普通はそうなんだが、今は応援上映というのもこの系譜に入るのだろう)に、没入した観客は心の中でミラクル元気ライトを灯すのだ。「頑張れ、孫悟空!」

そして勝利したスクリーンの悟空は満面の笑みでこう言うのだ。「オラ、腹減っちまったな」と。それが悟空の取り戻した日常だ。プリキュアと同じなんだ。

 

筆者の中で全部繋がった。そうか、孫悟空プリキュアだったのか(違)

もとい、プリキュアの没入体験型映画の原点となったのはドラゴンボールだったのだ。先程確かに書いた、プリキュアの映画にはドラゴンボールやワンピースも経験したスタッフがいて、激しい描写をする。同じようなスタッフが同じような強敵を描き、観客を1回全部絶望させ、いや待てみんなの力で悪を倒そう!力を貸してくれ!と。なるほどこれはコンテンツとして強いわけだ。もしかするとブウ戦やGTの元気玉はいくつかの映画作品を経て原作に逆輸入された要素だったのかもしれない。そう考えると、初期の元気玉と後期の元気玉の勝率の意味がガラッと変わってくる。

 

そしてもう1つ、初代”ふたりはプリキュア”の企画書に最初に記されたコンセプトを皆さんご存知だろうか?それは「女の子だって暴れたい」というものだ。プリキュアは女児向け戦隊になりたかったんじゃない、孫悟空になりたかったんだ。あぁ繋がった!東映アニメーションってすげぇな!オラワクワクしてきたぞ!

 

〇宇宙最強クラスの女児コンテンツへ

この没入体験というのが、他のキッズコンテンツが実はなかなかたどり着けない境地だ。ディズニーはまぁ没入体験の重要性をわかっているだろうが、全ての作品で勝利を目的としているわけではない。アイカツなどのゲーム連動アニメは、没入するのにどうしても現金投資を必要とする。後発他社の女児向け特撮は詳しくないのでここでは多く語らないが、意図的に「女児向け戦隊」方向に寄せているような気がする(それでいて商品展開はプリキュアに寄せてる感もあるのだが)。セーラームーンでさえもどちらかと言うと「女児向け戦隊」である。

 

また、プリキュアの前に繋がるおジャ魔女どれみなどの女児アニメも、この境地には到達していなかっただろう。しかしどれみもナージャもシルバー王女も、異なる形で自分たちの日常を精一杯守った。その系譜がプリキュアというオバケコンテンツの原動力になったのは間違いないだろう。筆者が見続けた女児アニメ枠は、戦隊やライダーにもヒケを取らない宇宙最強コンテンツの一角になり、だからこそプリキュアは19作目まで続いているのだ。

 

〇最強のトライアングル、ニチアサ

よく「戦隊がライダーのオマケ」みたいに言われるが、筆者の理想としては「戦隊とプリキュアがライダーの両翼」であってほしいのだ。ルフィにとってのゾロとサンジだ(もろ裏番組なのだが、これも東映アニメーションの系譜だから許して欲しい)。2つがバツグンの安定感を見せるからこそ、仮面ライダーは自由に冒険できる。

 

この四半世紀、戦隊、仮面ライダーメタルヒーロー、女児アニメの3つのコンテンツは、互いに支え合って成長してきたのだ。

90年代の前半までメタルヒーローと女児アニメは手を替え品を替え共に歩み続けた。この時まだ戦隊は平日夕方にやっていた。

97年、メタルヒーローは大きな転換を迎える。それまでのメタリックでスタイリッシュなヒーロー像を覆したビーロボカブタックの登場だ。世間の反応もどうなるかわからない。だからこそテレビ朝日は、メガレンジャーを日曜朝に移したのだ。ダブルヒーローが支え合うために、これが今で言うニチアサ体勢の誕生だ。

00年、今度は2つの番組に大変革が起きる。メタルヒーロー、コミカルロボット枠から仮面ライダークウガへの変化。そして大人志向のハードな作風のタイムレンジャー。しかしその時、2年目を迎えたおジャ魔女どれみ#が語りかける、「今度は私達が支えるよ」。

男児コンテンツがその作風とイケメンブームによるヒットを受け盛り上がる中、日常をつむぎ続けるが故に学年をも重ねてしまった4年目のおジャ魔女達に小学校卒業の時が迫る。「俺たちはへっちゃらさ、だって俺たち、伝説の後継者なんだぜ!」おジャ魔女の後を受け、03年の明日のナージャ、そして翌年いよいよ始まるプリキュア。その間も男児ヒーローは切磋琢磨し、映画館に子供たちを呼び込むスタイルを確立させる。「私達ももっともっとがんばるよ!だから、もっともっと新しいことにチャレンジしようよ!」爆発的なムーブメントともに2年目に突入する”ふたりはプリキュアMax Heart”と同期の男児ヒーロー、それは魔法戦隊マジレンジャー仮面ライダー響鬼である。

 

これがニチアサ史の一端であり、その後全部書くのはここでは割愛する。しかし確かに、三本の柱は互いに切磋琢磨し合って、時に支え合って、この四半世紀子供たちの心をグッとつかみ続けたのだ。1個1個が独立したシリーズ(あるいはシリーズとしては断続すらしている)でありながら、ニチアサは”ニチアサ”なのだ。だからこんなに長ったらしく説明したのだ。プリキュアはいいぞ。男児もオッサンもプリキュアを見ろ。特撮のオタクこそプリキュアに行け!(CV阿部寛)

 

 

〇ニチアサが紡ぐ未来

…それでじゃあ、プリキュアは爆発的にヒットし続けているかと言うと、やはり商業的には厳しいものがある。没入体験がピンポイント過ぎて「刺さる人には刺さる」の領域から脱出できていないのかもしれない。この文を読んでプリキュアを見たくなった人でも、グッズを買い支えようとは思わないかもしれない、いや逆に大人は妖精オモチャを買わんでいいとすら思う。

 

なんで今この文を発表したのかと言うと、最近始まったばかりのシリーズ第19作「デリシャスパーティプリキュア」が変革点になるかもしれないからだ。平成ライダーで言ったらビルドだ。ということは、次にデカいムーブメントを起こすための仮面ライダージオウに相当する大仕掛けをもうすでに用意し始めていると予想している。このデリシャスパーティプリキュアが、やはり18年分の様々なノウハウを詰め込んだ名作の予感がプンプンしており、まだ数話しか進んでいないここから見て欲しいのだ。

 

そしてそれを可能にするため、今年はプリキュアシリーズで初めて、アマプラなどの見放題サービスに継続的に残ることになった。なぜ今までそれをしなかったのかと言えば、先述した女児没入体験はリアタイこそ最高だったからだ。過去の名作は過去の名作であって、中古屋でボロボロのぬいぐるみを探せたとしてもやっぱりそれは何か違う、作る側もそう思っていた。しかしそうも言っていられなくなった。サブスク時代に子供たちの興味を引き続け、次の大仕掛けを成功させるためには、過去の遺産を大いに活用するのだ。それがディケイドやジオウから、あるいはもしかしたら遠く離れた光の星からの、戦隊とプリキュアへのエールなのだ。

 

何らかのサブスクサービスに入っている特撮のオタクは、今こそデリシャスパーティプリキュアを検索して欲しい。まだ間に合う、一緒にプリキュアの日常に入ろう。だってこんなに素晴らしいニチアサの仲間なんだもの。

 

プリキュアはいいぞ、特撮のオタクこそプリキュアに行け!

そして心で叫ぼう、「頑張れプリキュア!ありがとうプリキュア!」(CV阿部寛)

ゼンカイジャーとはなんだったのか

〇ゼンカイジャーとはなんだったのか
毎週放送中の「機界戦隊ゼンカイジャー」が終盤戦にさしかかり、俄然面白くなってきた。しかしこの面白さの理由を紐解いてみると、一筋縄では理解できない(普通に見ている、あるいは戦隊ライダーだけを好んで見ているような層では気づきにくい)、日本の児童エンタメを丸ごと飲み込んだような壮大な仕掛けがあることに思い至ったので、ここに書き散らかしていこうと思う。


〇45バーン目のスーパー戦隊
ここでは掻い摘んで紹介すると、機界戦隊ゼンカイジャーは東映特撮スーパー戦隊シリーズの第45作。全ての平行世界を支配しようと企むトジテンドと、全てのスーパー戦隊の力を模倣したセンタイギアを使って戦うゼンカイジャー。そのメンバーのうち4人はトジテンドと同じルーツを持つキカイノイド、例年の若手役者がピタッとしたスーツに変身する方式ではなく、ロボットからロボット(過去戦隊ロボがモチーフ)へと変身する。

トジテンドの尖兵は、トジルギアによって封印された数多の平行世界の力を持つワルド怪人。彼らの能力は近隣の世界のルールそのものに干渉するもので、一見トンチキな作戦が度々SNS上で話題になるほどだった。

世界を股に掛ける世界海賊ゴールドツイカー一家や、トジテンドの幹部を父に持つステイシーらとともに、これを書いてる現在放送中のゼンカイジャーはいよいよ最終決戦へと向かっている(結末はまだわからない)。

45作目の記念戦隊として生み出されたゼンカイジャーに込められたのは前44作の意思だけなのか、考えていくとそこにはもっと壮大な仕掛けが隠されていた。


〇必殺技とは、必ず殺す技である
いきなりこう書くと何が何だか分からないと思う。古くからのスーパー戦隊シリーズにおける定番として、合同バズーカや、ロボの剣技など、いわゆる「必殺技」がある。戦闘の一番の山場、相手にとどめを刺す時の技、ごく一部の強敵を除きこれを出したら文字通り「必ず殺す技」である。だからこそバズーカやロボのオモチャは売れるし、子供は真似したくなる。

この現象は大人向けエンタメでも同じことが言えて、それに該当するのは例えば水戸黄門の印籠だ。印籠を出して決めゼリフを言ったら戦いは終幕である。大きい違いは、印籠自体に攻撃機能がなくて、助さんと格さんはスーパー合体しないことくらいだ。CSM印籠(フルボイス実装)とか出ても誰も喜ばないだろう。

少し話が逸れたが、スーパー戦隊におけるロボとは出せばほぼ勝ちが確定した必勝アイテムであり、主に昭和の戦隊ロボや東映スパイダーマンレオパルドンは概ねそのように描写されていた。後年言われる「ロボ戦がオマケ」というのは、数多のロボットアニメの台頭で巨大ロボは戦闘こそ魅力と考える層から持ち込まれた考えで、それを否定するつもりもないしカッコイイ戦闘描写に定評のある戦隊作品もある。しかしそんな戦隊ロボをモチーフにしながらサイズダウンして、メンバーとして共同生活させようというのだからゼンカイジャーは際立ってヘンな作品なのである。


〇特撮ヒーローは水戸黄門なのか
水戸黄門の詳細はここでは割愛するが話としては概ね、黄門様御一行もしくは街の人達に何か悪者の手が忍び寄り、それを成敗してめでたしめでたしになる話だ。それだけ纏めると確かに特撮ヒーローと大きくは変わらない。

戦隊も仮面ライダーも概ねそんなストーリーラインに乗っていた…のは昔の話だ。特に平成以降の仮面ライダーに顕著だが、人物描写やストーリーが多様化し過ぎて、そんなシンプルなまとめができない作品が増えた。逆に意図的に短編でそういう構図を多用した”お悩み解決系”とでも言うカテゴリーがあるが、仮面ライダー電王のような縦筋をしっかり持った作品や、気がついたら次の物語が始まっていてめでたしめでたしの部分をあまり細かく描写しないなど多岐にわたる。これらもバトル描写に力点を置いた作品作りの功罪だろうし、絶対ダメだとも思わない。

そして戦隊も例に漏れず、黄門様の様式美からはほんの少し離れた作風が長く続いていくのである(ここで言う様式美とは勧善懲悪ということではなく、「守るべき日常と、脅かす者があって、これを排除して、めでたしめでたし」の一連のサイクルを指すので、排除の方法は和解や改心でも構わない)。


〇様式美の継承者は誰なのか
それでは、令和の今の世に水戸黄門の様式美を強く伝え続ける作品はないのかと言えば、主に2つあると思う。

その1つがアンパンマンだ。ここでは詳細割愛するが、上記した一連のサイクルの様式美はまさにアンパンマン+いつもの仲間たちとバイキンマンの構図である。伝家の宝刀アンパンチが言わば印籠であり、殺しこそしないが、これを繰り出せばおおよその事件は解決する。そう考えればアンパンマンはまさに黄門様の継承者だ。

もう1つが、実はプリキュアシリーズだと思う。戦隊ライダーだけ見てプリキュアを見ていない層に向けたプリキュア布教用の駄文はまた改めて書きたいが、ここでは掻い摘んで説明する。プリキュアはおおよそ女児向け戦隊と思われがちだが、ストーリーの構成が大きく異なる。彼女たちの物語の比重は「妖精あるいは異世界人、家族や友達、街の人達との何気ない日常」に強く偏っており、それを脅かす者に対してのみ変身する。またプリキュアで今の戦隊より極端なのが、変身バンク・名乗りバンク・大技バンクを毎回丁寧にやっている…ように見せて逆に言えば新キャラ新武器のタイミング以外ではほとんど使い回しなのだが、彼女たちにとってはこれこそが”いつもの印籠”なので、もう出したら勝ちなのである。とっとと戦闘を終わらせてスポーツの試合に戻らなくちゃとかそういうノリで、敵を排除する部分は驚くほどあっさり終わるし、その後のスポーツの試合が「めでたしめでたし」に該当するのである。プリキュアは戦闘ヒロインの物語であって戦闘ヒロインの物語ではない、少女たちの日常物語なのだ。ある面ではそれがマンネリを招くのだが、毎年工夫を凝らしたテーマや、妖精オモチャと女児との仮想共同生活によって人気が紡がれ、もはや19作目に到達している。平成ライダーで言ったらもうビルドまで来ているのだ。

…とまぁプリキュアの熱い語りは場を改めるとして、様式美の観点で言えば戦隊よりプリキュアの方が顕著に守っていると思う。


〇分岐する様式美
特撮が子供向けか大人向けかという議論やジェンダー論には興味が無いので、ここではあくまで一般論として書く。戦隊やプリキュアの主な視聴ターゲットは幼稚園児くらい、アンパンマンはもう少し低年齢層だろう。水戸黄門の視聴ターゲットはもっともっと遥かに上なのだが、言語もおぼつかない幼児の頃から前述の様式美は日本の子供たちに深く刷り込まれているのである。アンパンマンを見始めた子供たちにはまだほとんど性差は現れていないだろう。しかしその後、アンパンマンのカッコ良さに憧れる男児層が戦隊やライダーに流れ、楽しそうな日常パートの方に興味を持ち始めた女児層がプリキュアに流れる。前者は特に戦闘パートを好むので、戦隊やライダーは前述したように様式美をやや崩した形でもカッコイイヒーロー物として成立していった。その結果として戦隊とプリキュアアンパンマンから分岐進化した存在なのだ。


〇そして生まれるゼンカイジャー
…で、なんでゼンカイジャーを放ったらかしてこんな話をしてたかと言うと、ゼンカイの正体を語るのにここまでのプリキュアの話が絶対に欠かせないからだ。ゼンカイジャーの目指したものとは、”アンパンマンから分岐したプリキュアをもう一度融合したハイブリッドヒーロー”なのである。先述したような性差なんて幼稚園児くらいではまだ大した差はない、であればプリキュアが18年かけて育んできた「日常パート」と、東映特撮が長年培ってきた「戦闘パート」のいいとこ取りをしよう、ということだ。

思えばこの取り組みはもっと前から始まっていた。人外パートナーとエンディングダンスを取り入れたゴーバスターズの頃にはもうわかっていたのだろう。いつかプリキュアの要素を大きく取り込むべき時が来ると。人ならざる者をメインメンバーに内包するジュウオウジャーキュウレンジャー、玩具に声優が命を与え半ばマスコット化したグッドストライカー・ティラミーゴ・キラメイ魔進、そしてそれらをさらにハイブリッドしたのが4人のキカイノイドだ。これらの要素もプリキュアの妖精や異世界人を戦隊に組み込む過程だったと考えられる。

そしてここからは全くの推測だが、その過程の中である疑念が生じる。プリキュアの要素を模倣するだけではダメなんじゃないか、プリキュアの何がそんなに素晴らしいのか、ちゃんと学ぶ必要があるんじゃないか。よし、お前プリキュア1回やって色々学んでこい!…そう、この期間に戦隊数作だけでなくヒーリングっど!プリキュアを経験した、ゼンカイジャーのメインライター香村純子氏だ。ジュウオウジャー辺りで香村氏の片鱗に気づいた上層部が”プリキュアの日常パート”を内包するハイブリッド戦隊を作れるのはこの人しかいないと白羽の矢を立て、スーパーハイブリッド人造脚本家に仕立て上げたのだ。そして先述した”東映特撮の戦闘パート”面は、その道のエキスパート白倉伸一郎氏が固める。なるほど、そう考えると平成ライダーのノウハウすらもハイブリッドする意図があったんだろう。かくしてゼンカイジャーの体勢は整った。


〇トンチキの皮を被ったスーパーハイブリッド戦隊
香村氏の脚本はそのトンチキさでキャッチーな話題を振りまきながら、プリキュア的手法でメインキャラの、そして市民の日常をひたすら積み重ねた。終盤でスーさん(準レギュラー的な市民)が「ゼンカイジャーが守ってくれてるから、このくらいで済んでいる」と言った一言で理解した。あぁ、この人はアンパンマンのカバオ君なんだ。いつも大変な目にあうのに、いつもゼンカイジャーが助けてくれる。その日常を1年近くずっと重ねてきた、単発ゲストではない、ゼンカイジャーの周りの日常なんだ。正直なところ、この「スーさん=カバオ君」の図式が、この駄文を書くきっかけと言っても過言ではない。これは戦隊とプリキュアが融合してアンパンマンに戻った(水戸黄門になった)ことでしか生み出せない奇跡なんじゃないかと思ったのだ。そして物語は最終決戦編に入り、ステイシー周りのエピソードで1つ目の大爆発を起こす。いや、その前からハカイザー決着編やSDワルド回にも現れていただろう。それらの内容はここで語るのは野暮だが、とにかくスーパーハイブリッド戦隊は最後まで楽しみな名作に今のところなっている。

この話もあまり深くはしたくないのだが、この時期のプリキュア融和政策ハイブリッド戦隊が商業的にどうだったかと言うと、苦戦を強いられた。不況や少子化、時間枠移動といったどうしようも無い要素もあるだろうが、やはりプリキュアの妖精と戦隊ロボでは話が違ったのかもしれない。ただこれらの融和政策が総じて「やっぱりなんか違うね」と取られてしまったのだとしたら、それは非常にもったいない。児童の心を繋ぐためになりふり構わず頑張った結晶がゼンカイジャーなのだ。


〇そしてスーパー戦隊
ここまでゼンカイジャーを語ってきて、あえて次のドンブラザーズと、別のある戦隊の話もしておく。次の脚本家は、男性目線で重厚で長大な1年シナリオを書くことに定評のある井上敏樹氏。それを支えるのは、数多の男児向け東映ヒーローを生み出し、女性目線で日常に寄り添うプリキュア方式をも学んだ”スーパーハイブリッド白倉伸一郎”氏だ。そしてそこに、ゼンカイジャーでそこまで押し出さなかった過去戦隊の遺産をガッツリ全乗せしてくる。販売面はまぁ置いといて、作劇面でこの体勢は絶対すごいものになると確信している。今度もトンチキの皮を被るのか、放送始まってみたらそうでもないのか、期待は高まるばかりだ。

井上敏樹氏と言えば、よく言われる「ジェットマンがマンネリを救った」言説、あえてここまでの話を踏まえて異論を唱えたい。これは僕の想像だが、東映デンジマンの段階でこれをこのままやってるだけではダメだと思っていたのだ。だからこそサンバルカンで人数をいじったり、ゴーグルファイブに新体操を取り入れたり、その後も様々な試みをしてきた。色んな外的要因もあって、結果として視聴率が振るわなかった年もある。ファイブマン辺りでピンチに陥ったというのも事実ではあるだろう。しかしスーパー戦隊は、そこまで何年もかけて様々な試行錯誤をして、結果としてジェットマンで大きくハネたのだと思う。ジェットマン自体がとても魅力的な作品だということはもちろんだし、そこを作り出すまでにはやっぱり長年の蓄積があってのものだ。そしてジェットマンの置かれた環境というのは、奇しくもドンブラザーズに似ているのである。

今度のドンブラザーズでスーパーハイブリッド戦隊が大きくハネるのかハネないのかは正直わからない。どれだけ丁寧に積み上げたものでも子供達に伝わらなければ意味が無いのも事実だ。しかし男児特撮も女児アニメも長年見続けてきた身からすれば、この壮大なプロジェクトが上手くいくことを切に願う。